Ⅱ. 諸宗教の経済観と制限的循環性 · 1. 経済倫理と諸宗教の循環性

宗教の経済思想は、抽象的な宗教の思想を具体化して表現する、極めて核心的な宗教の構成要素といえる。宗教は、経済思想として表現されたとき、その隠れた意味を把握しうる。宗教は、経済思想として現れるとき、宗教思想よりも具体的な経済倫理として現れるといえる。

現代資本主義経済学は極力否認するが、経済と倫理はヤヌスのように、常に相反しながらも同時に現れる、極めて密接な関係である。リンゴ一つをどう食べるかという日常的な状況においても、経済と倫理は常に相反的に現れる。経済と倫理は相反する形態で頻繁に登場するため、「経済の逆が倫理、倫理の逆が経済」といえるほど密接な関係にある。歴史的に、経済と倫理は互いに長期関数のような関係を示してきたという。

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[図2.1] 経済と倫理の歴史的推移[136]

諸宗教の核心倫理は目に見える経済思想として現れ、宗教の経済思想は主に倫理学的な形態として現れるとするとき、諸宗教の経済倫理を考察することは、宗教を理解するうえで極めて重要な作業となる。また倫理学もまた経済学と密接な関係にあるといえるため、倫理学・経済学・宗教の三者は共通の理論体系を持っているといえる。[137]宗教・経済学・倫理学の関係については、まず日常に近い倫理学を中心に体系を立てたうえで、経済学との関係を照明し、再び宗教と関連づける順序で考察しうる。

第一に、まず倫理学の体系を考察すると、倫理学は時代順に、徳(卓越)[138]を強調するアリストテレスの倫理学[139]、正(正、正義)を強調するカントの義務論的倫理学、善(善、効率)を強調する自由至上主義的あるいは功利主義的倫理学という三つの伝統を持っている。[140]

日常生活を例にとれば、利益と倫理が相反する状況で良心を守る倫理的行為の基準は、古代ギリシアでは「我が存在」である内面的な徳の問題であったが、カントに来ると社会契約制度による「我が倫理的義務と権利」の問題となり、さらに現代に来ると「我と社会全体の利益」という行為の問題として倫理学はアプローチする。

抽象的な倫理学概念を具体的な社会科学である経済学に適用するには、理論と実践という両面を持つ倫理学の体系は、次の九つの体系に分けてみることができる。

〈表2.1〉倫理学の体系[141]

評価対象\価値概念基本的価値言語操作的価値言語究極的目的
行為善(善)効率効用
制度正(正)正義権利
存在徳(徳)卓越[142]能力

実際、経済学も倫理学と同様に、行為(善—限界効用学派)・制度(正—制度学派、歴史学派)・存在(徳—贈与論的経済学)という三つの課題を中心に理論を展開する伝統として現れる。

リンゴ一つを得る場合、新古典学派である限界効用学派は、最後のリンゴ一つを得るときに持つ効用すなわち限界効用と費用を計算して利益を取る効率的行為を重視し、制度学派は、リンゴ一つが我が手に入るまでの制度がいかに公正かという歴史と制度を重視し、贈与論的経済学では、誰が我にリンゴを与えたかという存在問題を重視する。

あらゆる社会に経済と倫理があり、経済と倫理が社会の核心となるのは、経済と倫理が「普遍的価値」という基準で社会を統合する二つの主要方案となるためである。相反する経済と倫理が常に共に現れるのは、経済(効率)と倫理(正)が善(善)という共通点を持っているためである。善もまた、二つの相反する属性が一つに統合されている。効用を善(善)とするとき、善は個人的多元性と質的多様性を持っているため、個人的多元性という側面では効率と正義、質的多様性という側面では自由と卓越という二つの結合をなしうる。自由は経済と倫理の双方に共通する基本的な価値規範となる。

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[図2.2] 課題の構成[143]

上記の課題に従って、経済の世界と倫理の世界は善を中心に統合される。統合された経済と倫理の世界は、政治あるいは宗教という徳を通じて仲裁される。経済・倫理・政治(宗教)はそれぞれ行為・制度・存在を代表する。

[図2.3] に見られるように、希少な資源から財物が生じ、不足する徳から能力が生じ、制限された正(正)から権利が生じる。経済と倫理は卓越性という政治的徳(徳)の領域で調節され、三つはすべて善へと統合される。

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[図2.3] 経済の世界と倫理の世界の統合[144]

倫理思想のうち経済倫理を考察すると、倫理思想は経済と関連したとき、正(正)・善(善)・徳(徳)のうちどの部分を強調するかによって特性が現れる。倫理学の伝統は、まず正(正)と善(善)の論争から始まった。アダム・スミスから始まる功利主義の伝統は、正(正)よりも善(善)を強調して「最大多数の幸福こそが道徳的である」と主張し、善(善)より正(正)を強調するロールズの社会契約主義が出るまで主導的な経済倫理思想を構築してきた。功利主義の伝統は、最大多数の幸福のためには個人は犠牲になってもよいとした。

ロールズは、カントの義務主義倫理を現代化して功利主義の弱点を指摘し、個人の自由に立脚した社会契約主義的正義論を復活させた。[145]個人の幸福が犠牲になれば最大多数の幸福は意味がないため、個人の幸福を保障する義務がより重要であるとする。ロールズの社会契約主義は功利主義より一歩進んだ側面があるが、自由と平等の問題を引き起こしたため、再び共同体主義者と自由至上主義者の批判を受けた。「個人の義務も重要だが共同体がより優先する」とする共同体主義[146]は、全体論的観点から、倫理的義務意識である正(正)よりも実用的な徳(徳)を強調し、自由至上主義は、個人論的観点から、正(正)よりも積極的自由という徳(徳)を強調した。このとき自由は、正(正)・善(善)・徳(徳)のすべてに共通する基本規範といえる。

各思想の関係をより具体的に考察すると、ミルとベンサムあるいはパレート[147]に代表される功利主義は、ハイエク・フリードマンに代表される自由至上主義とは異なり、「全体の利益になれば個人の自由は拘束されうる」とし、社会契約主義とは異なり、義務よりも利益が優先される。

経済より倫理を重視する倫理学は社会契約主義と共同体主義[148]であるが、ロールズに代表される社会契約主義は、共同体主義とは異なり、方法論的個人主義を採り、全体の利益のために個人を犠牲にしない。マッキンタイアに代表される共同体主義は、資本主義の下で社会福祉を施行しうる最高の代案であるが、個人の犠牲に対する反対給付の不透明性によって現実性が疑問視される。[149]価値理念という側面から見れば、経済倫理と関連した功利主義と自由至上主義は適応を通じた効率を強調し、倫理を強調する社会契約主義は連帯を通じた正義を、共同体主義は自由を通じた卓越を追求するといえる。以上のような課題を統合するために、現代の経済倫理と経済学は四つの位相において問題を解決する。

〈表2.2〉現代道徳哲学の位相

方法\価値善(善)—制度内秩序正(正)—制度の基礎構造
個人主義市場均衡論(理論経済学)社会契約主義(正義)自由至上主義(自由)
全体主義功利主義(効率)共同体主義(徳)制度進化論(歴史学派経済学)

四つの倫理学は、個人/共同体、効率(経済)/正義(政治)という基準に従って四象限に分けてみることができる。

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[図2.4] 四つの経済倫理の関係

第二に、宗教の側面を考察すると、経済倫理と宗教思想との相互関係は、宗教思想の教理体系にある循環論理の構成から考察しうる。数多くの宗教のうち循環的経済観を持つ宗教を儒仏仙と西教に限定しうるのは、諸宗教理論の論理的思考の枠に現れる。[150]循環的論理が表現しうる論理の枠が制限されているため、東西洋の宗教思想は儒仏仙と西教に圧縮されうる。経済学もまたゲーム理論のように一つの論理学でありながら互いに循環関係にあるといえるため、経済倫理と宗教は互いに統合されうる。

円は丸いため、循環論では命題Xと命題–X[151]は直線理論とは異なり、相補的(相補的)に現れる。[152]循環の諸様相は、数理論理を用いて、位相数学の一つである隣接構造論的に考察しうる。[153]弁証法のように、円の循環論理では、出発点でXとして出発した命題は折り返し点で–Xとなり、再びXとなる。[154]結局、循環論において現れうる論理は、

XはXであり–Xは–Xであるとする儒教[155]

Xは–Xであり–XはXであるとする道教[156]

XはXでも–Xでもないとする仏教[157]に制限され、

西教は「Xはすべて」[158]であるとする博愛(博愛)によって、三つの循環論理が作用するよう連結させる。

実際、XはXであり–Xは–Xであるとする儒教の論理は、[159]

学び(X)、それを時に習えば(X)喜ばしく、[160]

同志(同志、X)が訪ねてくれば(X)楽しく、[161]

君主(X)は君主(X)らしくあり、臣下(-X)は臣下(-X)らしくあらねばならない。[162]

知ること(X)を知る(X)とし、知らぬこと(-X)を知らぬ(-X)とすること、これが知ること(X)であり、[163]

友(X)は友(X)であり、仇(-X)は仇(-X)である。[164]

儒教の論理に対して、道教は逆説で応酬する。

Xは–Xであり–XはXであるとする道教では、[165]

道(X)を道(X)といえば道ではなく(-X)、[166]

最も強きもの(X)は最も弱き水(-X)であり、[167]

天地(X)は不仁(不仁、–X)であり、[168]

友(X)は仇(-X)であり、仇(-X)は友(X)である。[169]

中国大陸において道教と儒教が互いに対峙するなか、インドの仏教が仲裁する思想として中国を席巻した。

「XはXでも–Xでもない」とする仏教は、「仇が友である」とする道教に対して、

「友(X)も仇(-X)もなく」、すべては空(空)であるとする。[170]

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[図2.5] 諸宗教の相関関係

諸宗教の経済思想の循環関係は、宗教教理の核心といえる「永生を追求する方法」を中心に集中的に現れる。「Xはすべて」とする西教は、神と人間共同体との間で十戒に立脚した契約的循環を通じて霊魂永生(霊魂永生)を追求する。[171]「Xはすべて」という論理は、個人より共同体、物質より精神を追求させるため、霊魂を通じた永生を追求することになる。[172]「XはXでも–Xでもない」とする仏教は、縁起論による法輪における万物の循環を通じて輪廻転生(輪廻転生)を追求する。「XはXでも–Xでもない」のであれば、肉体と精神の区別がなくなり、我と汝の区別がなくなるため、人間は死して輪廻し、身を換えながら輪廻転生を通じて来世の完成を成し遂げうる。「XはXであり–Xは–X」である儒教は、父と子、君と臣という人倫における循環を通じて招魂再生(招魂再生)を追求する。物質は物質、精神は精神、我は我、汝は汝であるなら、来世より現世を、個人より共同体を志向することになる。「Xは–X、–XはX」である道教は、自然の理に合わせる無為自然の循環を通じて肉身永生(肉身永生)を強調してきた。[173]精神が肉体であり肉体が精神であり、死が生であり生が死であるなら、共同体より個人、来世より現世である肉身永生を志向することになる。宗教において循環は、永生を追求する各宗教のアイデンティティの核心であったため、循環を壊しうる経済の無限発展を警戒してきた。諸宗教は、志向する永生の個人[174]/共同体[175]、来世志向性[176]/現世志向性に従って四つに分けてみることができる。

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[図2.6] 諸宗教の永生観の相関関係[177]

循環的世界観において万物は、互いにフラクタル(fractal、相同性)のように類似した関係を示し、とりわけ宗教と密接に関連した経済と倫理は、なおさらそうであるといえる。フラクタル(fractal、相同性)とは、互いに似た構造を意味する。現代科学では、最も小さい原子と最も大きい銀河が類似した構造を持ち、コンピュータと分子が類似した構造を持つことを明らかにした。

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[図2.7] 宗教と経済倫理の相関関係

万物を分割して究極の粒子を見出す還元主義の方法とは異なり、万物の関係のなかから法則を見出す創発主義的で全一(全一)論的方法を用いる循環論では、万物はすべて循環し、互いに待対性を帯びる構造は互いに似た構造を持つ。[178]

[図2.4] 四つの経済倫理の関係と[図2.5]の諸宗教の相関関係において、それぞれX軸である効率(経済)—正義(政治)、現世志向—来世志向、そしてY軸である個人—共同体には共通する点があるといえるため、二つのグラフは[図2.7]のように重ね合わせることができる。

道教は、循環論において遠くを見渡せば「友(X)は敵(-X)であり、敵(-X)は友(X)」であるため、個人は他人との連繋なしに自らの自由を追求する自由至上主義的性格として現れる[179]とすれば、「友(X)も敵(-X)もない」とする仏教は、自らがなすべき義務だけを尽くす社会契約主義的な宗教となる。友は友、敵は敵で、敵と友が明確な儒教では、自分の側のための最大幸福を追求するが、全体の利益のために個人の利益は無視される功利主義[180]を志向する。道教・仏教・儒教が生産の側面ですべてを集めておいたとすれば、「Xは皆のもの」とする西教は、博愛(博愛)という共同体主義によって、集めたものを火のごとくすべて分け与える。[181]

第三に、経済を考察すると、世界の宗教は循環論の論理構造に従って儒仏仙と西教に分かれ、経済は貯蓄・生産・流通・分配という循環と関係する構造を持つ。

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[図2.8] 経済観の相関関係[182]

経済循環に既存宗教の論理を適用すると、

「Xは–Xであり–XはX」[183]とする道教は、未来に備えて今日を準備する財富観(財富論)を通じた経済循環に注力し、[184]

「XはXであり–Xは–X」とする儒教の論理は、財富観を通じて蓄積された財産で人間と社会を組織して生産に臨むことになる。儒教によって生産された財貨は西教の博愛思想によって広く贈与—流通され、流通の終わった財貨は、

「XはXでも–Xでもない」とする仏教によって公平に分配され、残ったものは再び貯蓄されて、[図2.9]のように新たな循環となる。

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[図2.9] 諸宗教と経済観の相関関係     [図2.10] 宗教と経済倫理・経済観の相関関係

倫理学が自由至上主義・功利主義・共同体主義・社会契約主義という待対性(待対性)を持つため、諸宗教の経済思想は[図2.10]のように、貯蓄・生産・流通・分配という経済活動過程を中心に、道教と自由至上主義的財富観、儒教と功利主義的[185]労働観、西教と共同体主義的財貨観、仏教と社会契約的分配観へと再編されうる。

また、経済思想と経済学は歴史的相関関係を持つため、[図2.11]のように、自由至上主義は効用という使用価値を強調する新古典派経済学、功利主義は有効需要と革新としての記号価値を強調するケインズ/シュンペーター主義経済学、共同体主義は贈与としての象徴価値を強調する社会福祉主義制度学派経済学、社会契約主義は公正な交換を強調するため労働価値論に立脚した交換価値を強調する古典学派やマルクス主義と近いといえる。

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[図2.11] 宗教と経済倫理・経済学の相関関係

各経済学派の思想を要約すると次のとおりである。新古典派経済学は、よく高校社会教科書に出てくる需要と供給の法則に代表される経済学をいう。需要と供給の法則は高校社会教科書に載っているため、論争の余地のない経済学の基本理論として知られているという常識とは異なり、需要と供給の法則は、供給中心の古典経済学に対する批判理論である新古典派経済学の理論にすぎない。新古典派経済学は、経済の全体的な流れよりも個人の主観的な選好に焦点を置き、経済を需要と供給・効用という観点で主観化させた。代表的な新古典派経済学者はマーシャル・ハイエク・フリードマンなどで、彼らは最小政府・市場経済・自由を至上価値とみなすため、自由至上主義者の経済学的根拠を提示する。新古典派経済学者にとって価値とは、その事物がどれほど使用する価値があるかという使用価値となる。

1929年の世界大恐慌を解決したルーズベルト大統領のニューディール政策の理論的立案者として有名なケインズは、世界大恐慌が来ても最小政府と市場経済を信奉して何の対策も立てられない新古典派経済学を批判し、有効需要という功利主義的概念によって恐慌を解決する。「市場にさえ任せればあらゆる問題が解決する」とする新古典派経済学者とは異なり、ケインズは、労働者に消費できる仕事を提供してこそ最大多数の最大幸福を成しうるとして、経済学の理論に大きな変化をもたらした。シュンペーター主義[186]は、ケインズ主義と同じく最大多数の最大幸福を追求する功利主義である点は同じだが、経済は有効需要である富ではなく革新によって価値が生じ、最大多数の最大幸福となる社会的革新が経済を循環させるとする。功利主義において価値は、社会的に最大生産をなしうる革新価値すなわち記号価値となる。記号価値は使用価値や交換価値のように明確ではないため、曖昧性を帯びる。また記号価値は他者の欲望を模倣する価値であるため、循環しなければ構成員の内部的分裂によって道徳的弛緩と自滅をもたらしやすい。記号価値(ボードリヤール)は誇示消費の価値(ヴェブレン[187])や模倣価値(ジラール[188])として現れるという。

新古典派経済学やケインズ主義経済学が、与えられた限界内での最高の適応という効率を強調した経済中心の経済学であるとすれば、制度学派経済学[189]は、与えられた枠を問題とし、与えられた枠を変えて新たな価値を創造しようとする経済学である。新古典派経済学やケインズ主義経済学は、経済循環において主に生産に注力して経済にエネルギー過剰現象を引き起こし、蓄積にのみ偏って経済循環を麻痺させる。制度学派は、合理的な消費の枠を作って経済を循環させようとする。代表的な学派と学者としては、贈与論的経済学者モース、消費を主とする一般経済学を主張したバタイユ[190]、ボードリヤール、米国制度学派ヴェブレンなどがいる。制度主義経済学は、経済の根源は消費と贈与にあり、生産は消費と贈与のための活動であって、商品の価値は、その商品が贈与されたときにどれほど価値があるかという象徴価値(ボードリヤール)あるいは文化価値[191](塩野谷祐一)として現れるとする。

新古典学派、ケインズ—シュンペーター主義経済学、制度主義経済学が、それぞれ使用価値・記号価値・象徴価値という効用に中心を置いているとすれば、古典学派とマルクス主義経済学は、公正な労働価値という交換に中心を置いている。最初の経済学理論といえる古典経済学は、高校教科書に出てくる需要と供給の新古典派経済学ではなく、労働価値の均等性を強調した古典学派とマルクス主義経済学であった。古典経済学は、あらゆる商品は人間の労働の産物であり、価格が定まるのは商品に投入された労働の平均値であるとし、経済的に効率的なものは労働価値を平準化することであるとする。古典派経済学において人間は、労働を投入しうる労働力という商品とみなされ、人間の価値は労働力を再生産しうる最低生計費とみなされる。賃金は、労働によって生産される価値ではなく、労働力を再生産するのにかかる費用、すなわち最低生計費となる。最低生計費と、労働が投入されて作り出される商品の価値との差が剰余価値となり、資本となる。

各経済思想のうち価値理論は、商品の価値が何かによって「我が受け取る取り分が正当か」を決定するため、価値論の問題は分配問題と直結し、経済学において核心概念となる。ボードリヤールは、あらゆる事物は四つの経済的価値を持つとする。たとえば、手に持っているリンゴは、食べれば使用価値、交換すれば交換価値、記号として使えば記号価値、他人に贈与すれば象徴価値となるとする。[192]

ここまでの議論を要約すると次のとおりである。

〈表2.3〉宗教—経済倫理—経済理論対比表

貯蓄生産流通分配
宗教道教儒教西教仏教
経済思想自由至上主義功利主義共同体主義社会契約主義
経済観財富観労働観財貨観分配観
経済学新古典派ケインズ主義制度学派古典派/マルクス主義
価値理論使用価値記号価値象徴価値交換価値

実際に東西洋の経済史を考察すると、西洋資本主義は、道教の財富観と類似して、私有財産と高利貸を「救済の予定」として認めたカルヴァンのプロテスタンティズム的財富観から始まり、中国から入ってきた儒教的富国強兵論によって火がつくことになる。富国強兵策によって西洋の所有欲が噴出すると、ついには富国強兵論の淵源であった儒教の東洋的循環性を破壊し、さらに人間は連鎖的に神を否定するに至り、神の救済の約束としての財貨という西教的循環をも破壊させることになる。循環性が消えた現代は物質至上主義と賭博資本主義へと変わり、現代はこれを救う循環的宗教思想を必要とするようになった。

大巡思想に現れた循環的経済観を理解するために、各宗教と経済思想ごとに、既存の経済思想の宗教的淵源とその制限的循環性をまず考察することにしよう。

注释

  1. [136]시오노야 유이치 (2002), 38쪽
  2. [137]시오노야 유이치 (2002), 70~71쪽
  3. [138]倫理学において徳は、東洋の徳とは異なり、卓越さ(arete)をいう。(박해경,「아리스토텔레스의 덕 윤리와 공동체주의에 대한 연구」, 경남대학교 교육대학원 석사학위논문, 2004, 5~7쪽)
  4. [139]アリストテレスは、カントや功利主義者とは異なり、徳を共同体のなかで論じ、徳は個人の動機や習慣・性格にかかっているのではなく、共同体のなかで人間が持つようになるものであるとする。(박해경, 2004, 1쪽)
  5. [140]『書経(書経)』では三事(三事)として、正徳(正徳)—存在、利用(利用)—行為、厚生(厚生)—制度をいう。(『書經』, 「大禹謨」, 안용진, 「공자의 경제 윤리에 관한 연구」, 성균관대학교박사논문, 2007, 초록에서 재인용)行為(天)・制度(地)・存在(人)は、天地人としても、ジョルジュ・デュメジルの政治・生産・宗教の三機能体系としても解釈しうる。
  6. [141]시오노야 유이치 (2002), 47쪽
  7. [142]「卓越」は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』におけるareteを翻訳したものである。(아리스토텔레스, 『니코마코스윤리학』, 이창우 외2인 역, 이제이북스, 2006, 36쪽)
  8. [143]시오노야 유이치 (2002), 77쪽
  9. [144]시오노야 유이치 (2002), 79쪽
  10. [145]ロールズの『正義論』に現れた倫理学的議論は、経済学にも多くの影響を及ぼした。とりわけ、効率性を中心に進められる経済学的議論に、ロールズの倫理学は、効率性以外の社会的徳目、すなわち自由・権利・正義などへの考慮を経済学の領域へ導き入れる触媒の役割をしたという。(박만섭, 「정의: 경제학과 철학의 접점」,『한국사회 제7집 2호』, 고려대학교 한국사회연구소, 2006, 35쪽)
  11. [146]共同体主義は、大きくマイケル・サンデルのアイデンティティ共同体主義、マッキンタイアの徳共同体主義、テイラーとウォルツァーの政治的共同体主義に分けられるという。(박해경, 2004, 26쪽)
  12. [147]パレートは、与えられた限界内で最適の効率性を持つ組み合わせを求めうる「パレート最適」という関数を発見した。パレートが発見した最適の配分は、共同体の最大多数の最大幸福を提供してくれる解法となった。パレートの方法論は厚生経済学といって、福利厚生を最適化する学問となった。
  13. [148]共同体主義は、小規模共同体の文化的特殊性を強調し、この共同体が人格の完全性・道徳の形成・共同体意識の形成に対して持つ価値などを強調することによって、小規模共同体の重要性を浮き彫りにする一群の社会理論的・社会政治的・道徳哲学的立場をいう。この立場によれば、人間の苦痛と不安を堪えうるものとして正当化してくれる「生の具体的意味」は、匿名的で多元的な社会においてではなく、共通の価値を志向し、人々が互いに知り合いうる大きさを持つ共同体のなかで実現される。代表的な理論家として、『これからの「正義」の話をしよう』で有名なマイケル・サンデルや、アリストテレスの徳の哲学を復活させたマッキンタイアなどがいる。(오트프리트 회페, 『윤리학사전』, 임홍빈 외 역, 예경, 1998)
  14. [149]自由主義の核心をなす自律性・中立性の代わりに、共同体・共同善を強調すべきというのが共同体主義者の主張である。(박해경, 2004, 26쪽)
  15. [150]大巡思想において諸宗教は、儒仏仙と西教の四つを核心としうるという。「またある日、上帝が仰せられた。『仙道(仙道)と仏道(仏道)と儒道(儒道)と西道(西道)は世界各族の文化の土台となったから、いまや崔水雲(崔水雲)を仙道(仙道)の宗長(宗長)に、震默(震默)を仏教(仏教)の宗長(宗長)に、朱晦庵(朱晦庵)を儒教(儒教)の宗長(宗長)に、利瑪竇(利瑪竇)を西道(西道)の宗長(宗長)に、それぞれ立てる』と仰せられた。」(『典経』教運一章六十五節)
  16. [151]命題Xとは「水は冷たい」という一つの文であり、命題–Xは「–」が否定を指すため「水は冷たくない」を意味する。
  17. [152]あらゆる存在は構造的な次元と流行的な次元を同時に持っている。ゆえに、陰陽の力動的均衡は、再び調和を成す陰陽の相互作用(感応)によって循環的変化が起こり、循環的変化によって再び陰陽の調和(調和)が成立するといえる。こうした観念が易(易)では、位(位)と時(時)、応比(応比)と往来循環、中(中)という卦解釈の原理として表示されたのである。(이상익, 『역사철학과 역학사상』, 성균관대학교출판부, 1996, 165쪽)西洋でも歴史発展の論理には循環があるが、東洋の循環が西洋の循環と異なるのは、感応論をより含むためである。西洋は循環も線形的にし、東洋の循環は西洋の循環に比べて非線形的な感応論を含んでいる。感応論は、東洋の循環が複雑系科学となる根拠となる。循環について感応の地点を選定する位置に従って儒仏仙が分かれるといえる。大巡思想において儒仏仙は究極的な思考体系へ拡大される。あらゆる道通神は儒仏仙の修めたところに従って道通を伝え(上略、道通するときには儒・仏・仙の道通神がすべて集まって各自が心身で修めたところに従って道に通じさせる、下略、『典経』教運一章四十一節)、同じ壬辰の乱を儒道が担えば3年、仏道が担えば8か月、仙道が担えば3日というのは、儒仏仙が普遍的な科学体系であることを示す。(上略、過ぎ去った壬辰の乱を崔風憲(崔風憲)が担っていれば三日に過ぎず、震默(震默)が当たっていれば三月を越えず、宋亀峰(宋亀峰)が担っていれば八月で乱を平らげたであろう。これはただ仙・仏・儒の法術が異なるためである、下略、『典経』預示一章七十三節)今日、科学において方法論的自由主義を採るファイヤアーベント、バシュラール、カンギレム、ミシェル・セール、ジルベール・デュランなどの科学哲学では、科学は詩的想像力と異なるものではないため、科学の背景として西教的科学だけがあるのではなく、儒教的科学・仏教的科学・道教的科学が互いに異なるように定立可能であり、実際に自然科学すらニュートン・アインシュタイン・量子力学など、循環を眺める観点に従って異なるように現れる。自然科学も循環する。世界的な科学哲学者ファイヤアーベントは、学校で魔術を教えるべきだとする。(장대익,『과학에는 뭐가 특별한 것이 있다』, 김영사, 2008, 180~183쪽)人文社会科学もまた、ハーバーマスが分類するように、主体の関心が解放的関心か否かに従って、実証主義・解釈学・構造主義・深層解釈学に分けられうるという。(위르겐 하버마스, 『사회과학의 논리』, 박성수 역, 문예출판사, 1986, 7~41쪽)ヴィクトル・シャウベルガーは、水についての理論を通じて、現代科学が自然の循環性を活用しえずに自然の破壊が深刻であったことと、自然の求心性爆発原理を利用して創造的な永久装置を作りうることを示した。(『아인슈타인은 틀렸다』, 양문, 1997, 97~101쪽)最近の量子力学は、儒・仏・仙のような「心を通じた科学」の可能性に没頭している。(김상운,『왓칭(신이 부리는 요술)』, 정신세계사, 2011, 36~55쪽)
  18. [153]位相数学(トポロジー)とは、東洋数学と西洋数学の境界にあるような現代数学で、「位相(位相)」という言葉どおり、事物の位置と形状を解析する数学である。位相数学は、東洋数学のように、事物の外形に関係なく事物の本質的共通性と差別性を発見する数学である。(이정우, 『접힘과 펼쳐짐』, 거름, 2000, 189쪽)位相数学は、空間上の変数を抽象化して各図形間の類似性を発見する。位相学(Topology)の発展によって、空間・代数・時空間を多元化された枠で学問の新たな扉が開かれることになった。位相数学を通じて、自己文化の構造を分析するのみならず、一つの文化で他の文化を理解するのにも役立つようになった。(한태동,『사유의 흐름』, 연세대학교 출판부, 2003, 29~30쪽)
  19. [154]世界の論理は、西洋の三段論法と中国の二元的論理に代弁され、韓国のような周辺国の循環論理は虚辞決定論として現れる。(박동환, 『동양의 논리는 어디에 있는가』, 고려원, 1993, 102-103쪽)循環論理は互いに感応しているため、虚辞決定論として多様に表現しうる長所がある。
  20. [155]孔子は「我が道は一以貫之(一以貫之)である」(『論語』「里仁」)、言行がすべて一つに帰結するとした。孔子は3,000人の弟子のうち70人を選ぶとき、一つに貫けるか否かを基準にしたという。孔子の論理は(X)²∪(~X)→Xと要約される。(한태동, 「사유의 흐름」, 『신학논단』, 연세대학교 신과대학, 1989, 13~16쪽)膨大な儒教をどうして式一つで単純化できるかという反論は、孔子によって反駁される。易(易)が単純な太極という記号一つに圧縮され、漢字は万物を一つに圧縮し一音節に圧縮する。漢字は韓国語の古代語であるインドのサンスクリット語の起源である悉曇語から出たという。(강상원, 『한자는 동이족문자』, 한국세종한림원출판부, 2007, 3쪽)また、漢字の意味と発音方法が一致する国は我が国しかないという。(박문기, 『정음선생』, 엠에스북스, 2011, 38~40쪽)圧縮と循環は、西洋と東洋の学問の方法論を区分する基準となる。東洋の数学は循環論理に基づいて十干十二支など帰納的に圧縮し、西洋数学は演繹論理に基づいて無限に拡張させるという。
  21. [156]X・(~X)を同時に受け入れる老子は、弁証法的で逆説的であるといえる。道経と徳経で構成された老子の道徳経において、道の構造は「XといいうるXは永遠のXではない」とし、徳の構造は「Xなる者を私はXとみなし、Xでない者も私はXとみなすから、これがすなわちXである」とする。5,000字の短篇であるが、徹底した統一性と豊かな表現を持つ道徳経は、人類の遺産といえる。(한태동, 2003, 50~54쪽)道と徳を総合してみると、結局、道教はXは–Xであり–XはXである理論といえる。
  22. [157]釈迦如来は、様々な問題に対する答えを与えたというより、その問題自体から解脱しうる道を提示したといえる。釈迦如来は、まず考えの基盤を分析し、我々が自ら造作した二分化された我執と色界が苦痛の根源であることを悟った。我執は絶えず二分化して無量衆生を成すが、無量衆生は実際には存在しないとして「実無衆生滅度入涅槃」とした。色界も絶えず二分化して三千大千世界を成すが、これはすべて存在しないものとして、三千大界をすべて布施しても釈迦如来の言葉一言にも及ばないとした。釈迦如来は、我執と色界の二分化を克服する方法として六波羅蜜を提示し、阿耨多羅三藐三菩提—無上正等正覚(無上正等正覚)とした。正等(正等)とは、易しい言葉で平等である。平等であるということは二分化を除去することである。(한태동, 2003, 23~25쪽)釈迦如来が悟ったということは、また、釈迦如来の教えを一つの論理に圧縮しうるということを意味する。
  23. [158]西教の構造は天地人三合のSimplex構造になっている。十戒のうち1~4戒は天、5~7戒は地、8~10戒は人間について主に語る。「主の祈り」もまた「御名が崇められますように(天)」「日用の糧を与えたまえ(地)」「我らに罪を犯した者を我らが赦すように、我らの罪を赦したまえ(人)」。イエスは40日間、荒野で繰り広げられた悪魔との試みにおいても、石をパンにする奇跡を拒否して天の秩序に順応し(天)、天下万国を与えるという誘惑を拒絶し(地)、聖殿の上から飛び降りよという試みも拒否する(人)。(한태동, 2003, 50~54쪽)イエスは天地人三合の根源を「父」という語で易しく表現したという点で儒教と通じる。儒教は、西欧の哲学者テイラー(Charles Taylor)が述べたように、今日の我々の時代は最も少なく宗教的でありながら同時に卓越して究極性と超越性を指示するもう一つの超越性を要求し、儒教において最も意味深く考える核は、その世間的超越意識であり、それはすなわち孝である。(이은선, 『잃어버린 초월을 찾아서』, 모시는 사람들, 2009, 58~84쪽)儒教は仏教や道教のように超越を外在化せず、内在化して独創性を得る。(프랑수아 줄리앙, 2003, 142쪽)孝は、循環を通じて失われた超越を求める方法である。道教が無形の天、仏教が形象のある地、儒教が人間について主に局限して語るとすれば、西教は天地人の根源である絶対者を語る。儒教が一次調和させた天地は、再び西教から儒教まで含めて二次流行され、再び西教まで含めた春夏秋冬として循環させる道によって三次調和される。神学もまた四つの論点があり、0と1の調和が創造論であるとすれば、1と1は聖母崇拝論(Both A and B)、2と1はキリスト論(Either A or B)、3と1は三位一体論(Neither A Nor B)であるという。(한태동, 「수학논리에서 보는 신학」, 『신학논단』Vol.5 No.-, 연세대학교 신과대학, 1959, 122~123쪽)この論考と関連して論じれば、0と1の調和が道教(創造論)であるとすれば、1と1は仏教(聖母崇拝論)、2と1は儒教(キリスト論)、3と1は西教(三位一体論)、4と1は道(元亨利貞)といえる。
  24. [159]X・(~X)を同時に受け入れる老子の弁証法的で逆説的な態度を、孔子は最後まで反対し、恩は恩で、恨は恨で報いる「(X)²∪(~X)²→X」という態度を固守して、老子と孔子の二つの学派はついに対立することになった。(한태동, 2003, 62~63쪽)
  25. [160]『論語』「学而章」、子曰、学而時習之、不亦説乎!(성백효, 『논어집주』, 전통문화연구회, 1990, 27쪽)
  26. [161]『論語』「学而章」、有朋自遠方来、不亦楽乎(같은 책, 29쪽)
  27. [162]『論語』「顔淵章」、斉景公問政於孔子、孔子対曰、君君、臣臣、父父、子子(같은 책, 346쪽)
  28. [163]『論語』「為政」、知之為知之、不知為不知、是知也(같은 책, 67쪽)。知ることを知るとし、知らぬことを知らぬとする孔子の言は反駁できないように見えるが、ソクラテスは「私は私が知らぬことを知っている」という嘘つきのパラドックスで応酬する。「私が知らぬことを知っている」という言葉は、「私が知らぬもののうちに知っているものがある」という逆説が出てくる。(한태동, 같은 책, 61쪽, 2003)
  29. [164]『論語』「憲問」、以直報怨、以徳報徳(같은 책, 421쪽)。原文の訳は「正直さで怨みに報い、徳で徳に報いるべきである」。この文の前には「或曰、以徳報怨、何如、子曰、何以報徳(怨むところにすでに徳で報いたなら、私に徳ある者には将来何で報いるのか)」がある。老子の「報怨以徳(仇を徳で報いる)」(『道徳経』63章、같은 책, 737쪽)に対する孔子の儒教論理的な答えである。
  30. [165]道教は「反」の美学と呼ばれるほど逆説的な表現が多い。反者道之動(反者道之動、『道徳経』40章)は、道の運動が循環的であることを内包している説明である。これは老子思想が弁証法の根拠として多く使用され、これによって老子は中国弁証法の始祖として推戴された。(김덕삼, 『중국도가사서설』, 경인문화사, 2004, 145쪽)
  31. [166]『道徳経』「1章」道可道、非常道、名可名、非常名(김경수, 『노자역주』, 문사철, 2009, 14쪽)
  32. [167]『道徳経』「8章」上善若水。水善利万物而不争、処(居)衆人之所悪(같은 책, 108쪽)
  33. [168]『道徳経』「5章」天地不仁、以万物為芻狗(같은 책, 80쪽)
  34. [169]『道徳経』「79章」和大怨、必有余怨、報怨以徳、安〔焉〕可以為善?(같은 책, 34쪽)
  35. [170]仏教では、キリスト教で「仇を愛せよ」というのは、煩悩を「愛」という美名のもとに隠すことであるという。さらにこれを時間性の連繋否定に適用すれば、憎むべき仇すら存在しえない境地に至ることになる。(한태동, 2003, 31쪽)
  36. [171]仏教は西方の宗教で引退性が多く死後の事を多く語り、儒教は東方日出の方として進出の性が強く生時の事を語った。仏教は空間的で無常と無我(無我)永生を語り、儒教は時間的で時変(時変)を語り、生孫永存(生孫永存)を語った。キリスト教は発揚(発陽)的で霊的(霊的)永生を追求することになり、仙(仙)道は水(水)の精(精)のように肉身永生を追求することになった。(한규성,『역학원리강화』예문지, 1997, 234-235쪽)
  37. [172]共同体とは、互いに同一の個体の集団ではなく、異質的な個体の集団であるといえる。同質的な個体の集団は、あえて共同体主義でなくとも集団化されうるためである。異質的な個体が共同体を成すには、逆説を容認せざるをえない。「すべてになる」には、物質的な肉体よりは精神になってこそ自由に変化が可能である。西教は、ギリシアのアリストテレスが開発した帰納・演繹・弁証・逆説のうち、合理的な領域から排除した逆説を根幹に教理を立てて成功した。論理において二分化された全体と個体は、演繹・帰納・弁証・逆説に四等分される。全体から個体を取り出す演繹、個体から全体を取り出す帰納、帰納と演繹の対話である弁証、帰納と演繹の対立である逆説がある。西教は、使徒信経に見られるように、小アジアの二元論であるグノーシス派と対立しながら二元二次的な三位一体論を定立したが、異端を排撃するために決定された信条を「時間を超越した不変のもの」と考えているとみなされる。(한태동, 같은 책, 6-7)
  38. [173]가지 노부유키, 『침묵의 종교 유교』(경당, 2002) 21~120쪽
  39. [174]仏教と道教は、儒教とキリスト教に比べて共同体よりは個人的修養を志向するという共通点がある。自らを内観して宇宙と人生の本質を悟ろうとする内向的思惟方向は、道家と禅宗が一致するとみることができる。(김항배,『불교와 도가사상』, 동국대학교출판부, 1999, 80~87쪽, 275~280쪽)道教と仏教は互いの類似性によって、隋唐時代に至って吉蔵・澄観・宗密のような華厳教学家が、伝統的な道—仏共助を破って優劣の関係とみなした。華厳学者たちが形而上学的本体の側面から道仏の関係を分析したためである。(신규탁, 「中國佛敎의 道家批判에 관한 考察」,『동양철학』Vol.28 No.-, 한국동양철학회, 2007, 277~281쪽)
  40. [175]仏教と道教が個人的修行を重視するとすれば、儒教と西教は共同体を相対的に重視する傾向があり、儒教と西教の共通点が多く指摘されてきた。マテオ・リッチを始めとして、最近、ジュリア・チン、韓国の柳永模・咸錫憲・柳東植・尹聖範・李恩選などは、孝とキリスト教の共通点を指摘している。ジュリア・チンは、儒教と西教が「内在性と同時に、社会的、さらには世界的責任に対する実際的関心に基づく外向性を持つ」という共通点があるとする。(줄리아 칭, 『유교와 기독교』, 분도출판사, 1994, 23~24쪽)
  41. [176]仏教は儒教と持続的な関係を結び、西教とはほとんど関係を結ばずにいたが、最近になって、宗教のうち来世を志向するという重要な共通点があり、来世に対する別の表現である「神」と「空(空)」が互いに関連していることを発見した。イエス・キリストは、仏教的に神(神)の空(空)として表現しうる。(한스 반델펠스, 『불교의 공(空)과 하느님』, 대원정사, 1993, 303~317쪽)
  42. [177]한규성, 1997, 233쪽
  43. [178]最近、宗教が持つ精神の力が物質的根拠を持っているという根拠を科学者たちが研究している。とりわけ仏教と道教では科学と連結しようとする動きが活発で、相対的に儒教と西教はまれである。宗教の物質的根拠についての研究は、道徳と科学に関する研究といえ、気が世を動かす方法についての研究であるため、経済と経済倫理・宗教を連結する研究において極めて重要である。道徳と科学において気が世を動かす方法についての代表的な国内著書としては、方建雄の『気が世を動かす』(예인, 2005)がある。
  44. [179]道教の嚆矢と呼ばれる『老子』は、修養書という常識とは異なり、中国で初めて国家と資本あるいは貨幣の論理を立てた本といえる。『老子』において万物の普遍的立法者として強力に登場する道(道)は、今日の資本と国家・貨幣の普遍性論理と同一である。『老子』の強力な普遍者論理と強く対立するのが『荘子』であるため、これまで同じ範疇に分類されてきた『老子』と『荘子』は、反対範疇に分類されねばならない。『老子』と『荘子』の関係は、ヘーゲルとマルクスあるいはヘーゲルとドゥルーズの関係のように、ヘーゲル・老子が同一性の論理で差異を規定するとすれば、マルクス・ドゥルーズ・荘子は差異で同一性を規定する。(강신주, 『노자 : 국가의 발견과 제국의 형이상학』, 태학사, 2004, 174~189쪽)したがって、老子の道教を「国家を初めて規定した哲学書」とみるとき、自由至上主義を定礎した思想とみなしうる。
  45. [180]功利主義の公利(公利)は、現下の学校教育が公利(功利)を追求するという意味の功利とは、共同体の利益という点で異なる。(「この世に学校を広く建てて人を教えるのは、やがて天下を大きく文明化して三界の事に付し、神人(神人)の解冤を解こうとするものであるが、現下の学校教育は、学ぶ者をして官吏・俸禄などの卑劣な公利にのみ陥らせるため、それゆえに局外で成道することになった」と告げられ、言葉を終えられた。『典経』教運一章十七節)
  46. [181]西教が初期から共同体主義的な性格を示しえたのは、ウェーバーが述べたように、予言者宗教としての原始西教が血縁関係を否定するという特徴を持っていたためである。聖書では「人の仇はその家族の者である。私は娘を母から、他の人をその父から、妻をその夫から引き離そうと来た(マタイ福音書10.34~39)」とする。この言葉はすなわち霊的共同体を優先するという言葉である。一方、東洋ではただ「孝」の違反のみが罪の根本となった。(김석근, 「유교 윤리와 자본주의 정신?-'베버 테제'의 재음미」, 『동양사회사상』, Vol.2 No.-, 동양사회사상학회, 1999, 219쪽)西教は誕生から他の宗教とは異なり、共同体を中心に遊牧的な形態を示した。今日、資本主義の物質至上主義を西教が代表するものと誤解するが、西教は遊牧民族から出た宗教で、「博愛」という教理どおり物質を施すことを核心とする。中世修道院の元祖となった聖フランチェスコや、現代カトリックの象徴的人物であるテレサ修道女は奉仕の化身であり、西教は「奉仕修行」という社会事業に積極的な伝統がある。今日、西教が資本主義の象徴となったのは、中間に東洋の儒仏仙の影響と帝国主義・資本主義との結託によって本流を忘却したためである。
  47. [182]東洋の世界観は時間の軸を一つの空間に表すため、時間と空間の軸が同時に現れる。たとえば、春夏秋冬と東西南北は同じ軸に現れる。時間の軸に従って連結される貯蓄—生産—流通—分配も、経済観や経済倫理と重なる。飲食文化のような場合も、西洋はビュッフェ式に空間的順序で食べ物が出て、中国はコース料理のように時間の順序で出るとすれば、韓国は膳の文化のように時空間が合わさった形態として現れる。建築様式もまた、韓国は庭園を春夏秋冬別に配置して時空間を同時に表す。(박용숙, 『한국의 미학사상』, 일월서각, 1990, 213~218쪽)
  48. [183]道教の逆説的待対性は、玄(玄)・一(一)・無(無)・道(道)という四つの互いに異なる概念で表現された。道教の待対流行もまた、自然の循環は天地之道、人間の循環調節作用は聖人之道として表示しうる。(김영주, 「노자사상,〈그림 천지지도〉의 새로운 해석」, 『동양사회사상』 Vol.20 No.-, 한국사회학회, 2009, 185~187쪽)
  49. [184]道教の待対性は、今日、西洋人文学を席巻した西洋の解体主義の元祖思想としても言及される。ウェスリングは、解体主義の大家デリダの哲学を「不完全な老荘哲学体系」とし、米国の著名な陰陽思想家であるグレアム(A.C. Graham)は、老子とデリダは「あまりに著しい類似性のために差異を見落とす危険がある」とまでいう。(김상래, 「노자의 해체주의적 사유와 윤리설의 특징」,『동양고전연구』Vol.42 No.-, 동양고전학회, 2011, 330쪽)今日、万物は解体され、マルクス主義もまた解体主義の一つとして言及される。解体主義は循環主義の別名といえる。万物を解体するということは、万物を循環的に眺めるということの西洋的表現といえる。
  50. [185]朱子は法家を功利主義と批判したという。儒教は法家の経世と、老子・仏教の修己の両面を折衷したという。(이상익, 「주자와 율곡의 경세론」, 『율곡사상연구 제11집』, 율곡학회, 2005, 45~46쪽)理想的な儒教が折衷可能であったとすれば、現実の儒教は法家へ流れた点を勘案すると、儒教を功利主義に近いといえる。
  51. [186]シュンペーターは、マルクス・ケインズ・新古典派など当時の経済学の大家が誰も注目しえなかった第三の価値である革新を価値の起源として見出し、若年にして一躍世界的な経済学者となった。革新は人間の役割が極めて強調された概念で、価値を作り出すのは、経済の基本三要素である労働・資本・土地のどこにも属さない技術であった。シュンペーター以後、資本主義は知識すなわち人間の人的資本を核心要素とみなすことになった。シュンペーターは、革新とともに、革新を実現させるもう一つの人間的価値である企業家精神を強調した。シュンペーターの革新と企業家精神もまた社会の構造的結果であるという批判もあったが、シュンペーターが左右両陣営が知らなかった新たな問題の枠を作ったことは否認できない。シュンペーターの伝記については、伊東光晴の『ヨーゼフ・シュンペーター』(박영호 역, 지식을 만드는 지식, 2004)がある。
  52. [187]当代の天才として著名であったヴェブレンは、ケインズ・シュンペーターすら発見しえなかったが誰もが知っている資本主義の秘密である「誇示消費」を、新たな経済価値の根源として把握した。ヴェブレンは、人間は救済予定の徴を得るために生産する合理的存在ではなく、他人に誇示するために消費する俗物的な存在であるということを経済の土台とする。ヴェブレンは、フロイトの無意識検閲のように隠そうとしていた経済学の偽善を脱ぎ捨て、赤裸々な真実を示した。ヴェブレンの誇示消費説は真実を暴露したが、別の疑問を生んだ。人間はなぜ誇示するのか、誇示消費はどんな結果をもたらすのか。誇示消費は、動機こそ問題があるが結果的には経済の循環をもたらすため、健全な誇示消費が必要であることを知らせてくれ、したがって経済は制度が決定するため、寄付制度・社会保障制度・独占禁止制度のような制度の改革を主張した。ヴェブレンはガルブレイスのような経済学者に影響を与え、ボードリヤール・バタイユなど贈与を経済の核心と発見した学者たちの経済学的根拠を作ってくれた。ヴェブレンの代表的著書には『有閑階級の理論』(토스타인 베블렌, 최광열 역, 박영사, 1983)がある。
  53. [188]ルネ・ジラールは、資本主義を生きる現代人が神棚に祀るように大切にする自分の欲望が、実は他人の欲望を模倣した模倣欲望であることを暴露して世界的名声を得た。当初『ドン・キホーテ』『赤と黒』などの文学評論家として出発したジラールは、以後、文化人類学と経済学にも模倣欲望理論を適用して大理論を構築した。フロイトが発見した無意識以後、無意識よりさらに衝撃的な模倣欲望理論によって、人文学の画期的な発展の起爆剤となっている。ジラールは『ドン・キホーテ』分析において、近代小説であるドン・キホーテは中世騎士の欲望を外面的中介で模倣し、スタンダールの『赤と黒』、ドストエフスキーの『罪と罰』などの現代小説では、主人公が相手と内面的に模倣して葛藤をさらに増幅させるとする。(르네 지라르, 『낭만적거짓과 소설적 진실』, 김치수 역, 한길사, 2001)模倣欲望は社会の暴力を呼び起こし、その暴力は犠牲羊を通じてのみ解消されうるとする。(르네 지라르, 『폭력과 성스러움』, 박무호 역, 민음사, 2000)キリスト教は、こうした犠牲羊メカニズムを初めて表面に現すのに貢献があるという。(르네 지라르, 『그를 통해 스캔들이 왔다』, 김진식 역, 문학과 지성사, 2007)資本主義において貨幣は犠牲羊のような機能をするといえる。ジラールはラカンとともに、現代人の欲望が他人の欲望であることを明らかにした中心人物である。ジラールとジラールの経済思想については、『ルネ・ジラールに依拠した経済論理批判』(김진식, 울산대학교 출판부, 2005)が研究されている。キリスト教は、犠牲羊制度を初めて明らかにしたという点で共同体主義を代表するといえる。ジラールの模倣欲望理論は、「人間のあらゆる欲望は誇示消費である」とするヴェブレンの欲望理論に正当性を提供する。
  54. [189]制度学派経済学は、塩野谷祐一の主張に従って、ヴェブレンなどの米国制度主義経済学を含むより幅広い概念として、ここで使用される。
  55. [190]バタイユは、モースの贈与論を発展させて贈与の一般経済理論を作った。バタイユが贈与の経済学を主張する理由は、生産の経済とは異なり、経済はエネルギー消費体系として、太陽が常にエネルギーを無償で供給してくれる供給過剰を解決するために絶えず消費することがより重要であるためである。バタイユは、消費と贈与行為が円滑でないとき世界大戦のような異常現象が発生するため、社会は贈与制度を絶えず作らねばならないが、現代社会は「利己的人間」仮説によって絶えず集めようとし、それが経済を危機に追い込むとする。バタイユの理論は、ボードリヤールの構造主義理論である記号価値論と、贈与経済論である象徴価値論に影響を与えた。バタイユは、20世紀後半の代表的理論家であるフーコーから「最高の知性人」という極讃を受けた。バタイユの著書は『呪われた部分』(문학동네, 2000)、バタイユの共同体主義についての案内書としてはジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』(인간사랑, 2010)がある。
  56. [191]塩野谷祐一の文化価値は、アリストテレスの共同体主義卓越性に基づく文化価値を主張する。ボードリヤールの象徴価値、ヴェブレンの誇示消費は、結局、アリストテレスの共同体主義卓越性に基づく文化価値へ統合されるといえる。(시오노야 유이치, 2002)
  57. [192]강신주, 2009, 382~385쪽