しかしながら、天としての第五元素の属性が極大化された地水火風の天観・地観・人間観と、土としての地の属性が極大化された陰陽五行の天観・地観・人間観とは正面から衝突する。幸いにマテオ・リッチの時代には補儒論を口実として両天観・地観・人間観は協力関係を結んでいたが、マテオ・リッチ以降は補儒論論争によって両天観・地観・人間観は互いに排斥し合い対立関係へと突き進み、結局のところ東洋はインカやマヤ帝国のように西洋によって文明が消滅する危機に直面することとなる。東洋は儒教の典憲を超えられず、西洋は東洋を受け入れられなかったのである。
とりわけ太極の「理」が自立的存在であるか否かという問題が、両天観の核心的問題として浮上した。実体によって変化を説明する西洋の形相的天観においては万物は創造されたものであるがゆえに太極の「理」は自立的存在となりえないが、天地開闢によって天地の運営を担うとする東洋の同化的天観においては太極の「理」は自立的であり、両天観は衝突せざるをえなかった。
「理」が自立的存在(substantia)であるか偶然的存在(accidentia)であるかを区分し、「理」は自立しえないという西洋の実体論的立場を明らかにしようとする『天主実義』のマテオ・リッチの主張に対して42)、理と事物とは完全に連結されているがゆえに理があれば事物があり、事物が存在すれば理があるという東洋の属性的な論理によって、性理学者である愼後聃は『西学弁』において答弁する43)のである。
西洋に対して好意的であった一般民衆もまた、西洋の支配が本格化する北京条約以降、西洋の天観・地観・人間観に対する立場を否定的なものへと転換させていく。西洋の力に圧迫された東洋は、今や西洋の力に対応しうる通過儀礼のリミナリティと新たな天観・地観・人間観の再活性化を必要とするようになった。これにより東アジアにおいては中国の一貫道、太平天国の乱、辛亥革命のような運動が起こり、日本においても明治維新、天理教のような新宗教運動が新たに生じあるいは拡散していった。
陰陽五行の天観・地観・人間観の崩壊に最も敏感に反応したのは、東洋三国のうち儒教化が最も進んでいた韓国であった。韓国は西学が東洋において始まったとする西学中源論をさらに発展させ、西学を東洋の観点から解釈する。徐命膺から始まった韓国的西学中源論は丁若鏞と崔漢綺を経た後、東学思想に至って転換の臨界点に達する44)。東学思想は地水火風の人格神と陰陽五行の理法神との間の調和を、侍天主というリミナリティを通じて提示する。
東洋の場合、天界・地界・人間界の創造主が隠れる代わりに、西洋とは異なり天界・地界・人間界が『周易』のごとく天地人および陰陽に区分され、自律的かつ一貫した神明体系を成している。西学においては唯一神によって天界・地界・人間界の他の神々が消えるのに対し、道教では『周易』の影響によって天界・地界・人間界の神々が陰陽という自律的かつ一貫した体系として作用する。これは無為而化、天地鬼神45)という東学の調化思想へと連結される。
西学中源論が朝鮮に導入された後、リッチの陰陽五行批判に対して陰陽五行論的反論が提起される。徐命膺はマテオ・リッチの『天主実義』に対して邵康節(1011-1077)の陰陽五行論をもって反駁する。一方、丁若鏞(1762-1836)はマテオ・リッチの意見を一部受容して性理学を批判することもあったが、これは東洋の価値を擁護するためであった。このように東学以前に相関的思惟に対する東西洋の論争は、当時の学界における重要な争点となっていたのである。「東学」は「西学」に対して東洋学問固有の方法論を強調する時代的雰囲気の中で誕生した。
当時の東洋人にとって、東アジアの自生的近代性の確立は選択の問題を超えた生存の問題であった。アヘン戦争によって西洋の力を実感した東洋は、自生的近代性の樹立に失敗するならば、アジアもまたアフリカやアメリカ先住民のように文明喪失の境地へと転落しうるという危険を察知していた。さらに西洋人よりも勤勉に生きてきた東洋人にとって、西洋の衝撃は物質的な脅威も大きかったが、それまでの努力が水泡に帰するという意欲喪失の精神的脅威として迫ってきたのである。
帝国主義時代の東洋人は物質的脅威のみならず、アイデンティティさえも喪失する精神的危機に直面し、西学を無批判に受容するか、あるいは東洋の神秘主義に依存した。東洋的合理性たる相関的思惟による自生的近代性の樹立は、ますます東アジアの生存にとって核心的問題となっていった。東学は重い課題を抱えて成立したのである。陰陽五行という相関的思惟に基づく東学の概念が定立されると、「無極大道」「天地鬼神」「上元甲」「再びの開闢」といった概念が新たに確立されていった。
天観の相克化
陰陽五行と地水火風の天観・地観・人間観が衝突するなかで、天観の相克化が深刻化していく。陰陽五行と地水火風という二つの思想は理想的天観・地観・人間観も同一であるが、相克化の様相もまた類似している。地水火風の世界観では人間の罪によって、陰陽五行の世界観では不完全な世界構造によって、理想的世界はそれぞれ水火風三災、陰陽乱雑へと相克化する。マテオ・リッチ以降に展開された東西交流によって、東西洋は互いに異なる理由から神を否定する天観の相克化が進行する。
マテオ・リッチ以降に展開された東西の神人関係の混乱は、人間死後の霊魂不滅説の部分から始まった46)。マテオ・リッチ以降、東洋では四代が過ぎれば気が消失するがゆえに霊魂もまた消失するという理気論が疑われ、西洋では神の世界が絶対神一柱と天使数柱で構成されているということが疑われた47)。マテオ・リッチ以降、東洋では陰陽五行と天地神明が否定され、西洋では東洋と同様に数多くの理法神あるいは機械から成る無神論的世界観が形成された。
東洋と西洋の思惟方式の差異は、早くからマテオ・リッチの『天主実義』および『天主実義』をめぐる論争において詳細に現れている。今日の基準から見れば、地水火風の世界観は近代の機械論的科学観よりもむしろマテオ・リッチが批判した陰陽五行の天観・地観・人間観により近く見えるが、変化を説明するにあたって実体を強調するという点においてフランソワ・ジュリアンが指摘したように48)、地水火風の世界観は近代の機械論的科学観により近かった。実際リッチは、東洋の陰陽五行的天観・地観・人間観と相関的思惟の科学という共通の属性にもかかわらず、東洋の陰陽五行的天観・地観・人間観は変化を説明する際に実体によって説明せず49)、属性によって説明する非科学的説明であると批判する。
補儒論論争に見られるように、天主教はマテオ・リッチが伝えた東洋の世界観を否定したが、世俗社会においてはむしろ歓迎された。コギト・エルゴ・スム(Cogito ergo sum)に代表されるデカルトを嚆矢として、西洋は既存の神観を漂白し50)、神なき機械論的世界観を構築していく。一方、道徳においては律法よりも福音を強調する理論が拡大される51)。すなわちカルヴァンの救援予定説は、神なき社会における共感へと変化していく。近代性は新たなリミナリティへと集約される。人間的側面においてこのような神観の変化は肯定的変化として解釈されてきたが、近代の問題が極大化された今日においては反省の契機となり、新たな代案的近代性を模索する契機となった。
相克化された神尊人卑の天人関係において、人間は解脱や脱俗あるいは死をもって天界・地界・人間界を去らねば、生老病死の苦痛から脱しえない存在となる。相克化された天観においては神明もまた拘束され、各自が自らの境界を担い、自身の分野と自身の領域内に閉じ込められた否劫の中の存在となる。人間はこれによってそれぞれの土の気の影響のもとに異なる文明を起こし、互いに紛争するに至る。さらに相克化された天において雨露の不調和により、人間は水火風三災の苦痛のなかで生きることとなる。相克は相克を生み、天地と人間は惨憺たる錯乱を経て尽滅の境地へと転換していくのが今日の現実となっている。
東学思想の侍天主天観に現れたリミナリティ
東学思想の侍天主天観
性理学の理法天が東アジア、とりわけ朝鮮社会において新たな時代の問題を解決しえない段階に至ると、東学は天の上の天たる天外天、すなわち無極の天という新たな天観によってこれに対する解法を提示した。東学は西学の学問を天観として包容しようとする。これは蒙古とイスラムによる西洋への侵入が西欧近代性の背景となったことと類似している。東学が新たに提示した天観は性理学の理法天とは異なり、天の上の天、すなわち天外天との直接的疎通であった。侍天主の天は天外天としての天概念である。
東学思想は既存の天観・地観・人間観において注目されてこなかった天外天の概念を強調し、天観・地観・人間観の自生的近代性を図る。多重的近代性理論において近代性は、東学思想のように既存の天観・地観・人間観において疎外された部分を再活性化し、聖-俗の順位を逆転させて俗が聖を受容しうるよう転換する統摂とリミナリティから発生する。東学思想は天外天との直接的疎通を通じて日常の世俗において聖を経験する聖-俗の順位の再配置を追求し、修心正気を通じて既存の重畳した問題を解決するリミナリティを試みるのである。
水雲は既存の性理学の「天」とは異なる「天の上の天」との直接的疎通を侍天主と表現する。水雲は生涯にわたり「天の上の天」との直接的疎通のために自らのあらゆる力量を投入してきた。四十年近い長年の歳月を努力してきた水雲は、ついに庚申年に至って天師問答に達する52)。東学思想の天観は上帝との邂逅である天師問答によって成立する。水雲は1860年(庚申)旧暦四月五日に上帝の最初の啓示を受けたとされる。
不意四月 心寒身戰 疾不得執症 言不得難狀之際 有何仙語 忽入耳中 驚起探問則 曰勿懼勿恐 世人 謂我上帝 汝不知上帝耶 問其所然 曰余亦無功故 生汝世間 敎人此法 勿疑勿疑 曰然則 西道以敎人乎 曰不然 吾有靈符 其名 仙藥 其形 太極 又形 弓弓 受我此符 濟人疾病 受我呪文 敎人爲我則 汝亦長生 布德天下矣
思いがけず四月に心が冷えそぞろ身が震えて、いかなる病かを集症することもできず、言葉で形状することも難しいときに、ある神仙の言葉があって忽ち耳に入ってきたので驚いて問い質したところ、答えて言われるには「恐れるなかれ、恐れるなかれ。世の人々が我を上帝と呼ぶのに、汝は上帝を知らぬのか」と。その理由を尋ねたところ、答えて言われるには「我もまた功なきゆえに、汝を世に出して人にこの法を教えしめるのである。疑うなかれ、疑うなかれ」と。問うて「然らば西道をもって人を教えるべきでしょうか」と。答えて「然らず。我に霊符あり、その名は仙薬、その形は太極、また形は弓弓である。我のこの符を受けて人を疾病から救い、我の呪文を受けて人を教えて我のために為さしめれば、汝もまた長生して徳を天下に布くであろう」と。53)
水雲の天師問答は六か月余りにわたって続き、一年余り苦悶した後、水雲は『龍潭遺詞』および『東経大全』にこれを詳細に表現する。それゆえ李敦化は水雲の修行を天師問答と内部降話とに分ける。しかし『龍潭遺詞』および『東経大全』以降に書かれた『道源記書』には、その後水雲が逮捕される直前まで上帝と幾度も疎通する箇所が登場するという54)。
東学思想が近代宗教、ひいては東西古今の宗教史において最も特徴的なのは、創始者の宗教経験が極めて詳細にかつ長期間にわたって表現されている点であるとされる。そもそも東学思想のように創始者の宗教体験から宗教が始まるのはイスラム教がほぼ唯一であり、他の宗教は仏教のように創始者の修道経験などから始まり、宗教体験についての記録は現れないとされる55)。またイスラム教においてもその経験は極めて簡略に表現される。東学思想が由緒ある儒教社会であった韓国社会において短期間に多くの支持者を得たのは、この詳細な天師問答が信頼を呼び起こしたところが大きい。
六か月余りの天師問答の過程においてなされた対話内容を水雲が解釈する過程において、東学は成立する。水雲は「論学文」においてまず西学との差別性を東学の認識論的背景として強調する。水雲は自らが出会った上帝が東西洋の天を統合した天の上の天であることを明らかにし、とりわけ西学の天よりも上の天であることを主張する。水雲はこれを「学」の性格において究明する。「論学文」という題目に見られるように、西洋の帝国主義に対抗した全世界の文明のうち、唯一韓国の東学のみが認識論的主題である「学問」を主要な主題とした。東西洋の差異が認知構造という根源的部分において差異を生じるという東洋に対する主張は、東学の「論学文」において最初に現れる。
『東経大全』「論学文」において水雲は、西洋は分析的であって状況に応じて言葉が変わり、神を信じるかのようでありながら信じていないがゆえに結局のところ虚無に陥るという内容に言及する。まず水雲は東学と西学の差異を「運則一 道則同 理則非」という言葉によって明示する。
日與西道 無異者乎
問う、西道と異なるところはないのですか。
日洋學 如斯而有異 如呪而無實 然而運則一也 道則同也 理則非也
答える、洋学はこれと似ているが異なるところがあり、祈るようでありながら実がない。
しかしながら運数においては一つであり、道においては同じであるが、理においては異なるのである。56)
上の例文において水雲は、東洋と西洋の学問は目標は同じであるが方法論的に異なると述べる。これに関する先行研究は裴永淳によって整理されたことがある。裴永淳は既存の先行研究では東学に言う運・道・理の差異が詳細に解明されていないとして、その差異を詳述している。裴永淳は侍天主「侍天主 造化定 永世不忘萬事知」において、「侍天主」は天に、「造化定」は地に、「永世不忘萬事知」は人に該当するものとして分けて見ることができるとして、侍天主を天地人の相関的思惟として分析している。
裴永淳は再び侍天主を運・道・理に適用させ、道は「侍天主」、運は「造化定」、理は「永世不忘萬事知」に配当する。結局のところ東学と西学の差異は、天地は同じく一つであるが天主を侍る人間の理において差異が生じるのだという。裴永淳は東学において東西洋は春夏秋冬という天(道)は同じであるが、東洋と西洋という地は気運に応じて異なるのだという57)。
東学と西学の理の差異は、東学において次のように説明されている。
曰何爲其然也 曰吾道無爲而化矣 守其心正其氣 率其性受其敎 化出於自然之中也 西人 言無次第 書無皂白而 頓無爲天主之端 只祝自爲身之謀 身無氣化之神 學無天主之敎 有形無迹 如思無呪 道近虛無 學非天主 豈可謂無異者乎
「いかにしてそうなのですか」「我が受ける道は天主の意に従って自然に世を教化する」。各々がその本来の心を守り、その気を正してその天賦の性に従うことにより天主の教えを受ければ、自然に教化が成し遂げられる。これに対して西学を信じる西洋人はその言葉に正しい順序がなく、その文には明瞭な条理がない。そして全く天主のために尽くす実がなく、ただ自らの利益のための方策を祈るのみである。それゆえに身が霊気と合一する驚異の境地もなく、天主の真の教えもなく、形式のみあって実がない。天主を思っているようでいて天主を真に奉ってはいない。このようにその道はほとんど内容が空であり、その宗教は天主のために尽くさない。どうして異なるところがないと言いえようか。58)
上の例文は『東経大全』のうち最も難解な部分とみなされているが、その理由は上の例文において批判の対象が天主教あるいは天主教信徒として主に理解されてきたためであるという。上の例文において批判の対象を西洋人一般、西洋学問全体として見るならば理解が可能であるという59)。
上の例文において裴永淳は、東学が指摘する東学と西学の決定的差異は「気化之神」であるという。ここで気化とは天の気が身体に凝縮することを意味する。西学は天主に向かって祈るのみであって、自ら気化しうる呪文がなく、修心正気の修練がないというのである。水雲は西学において司祭と一般信徒が垂直的に厳格に区分されることを批判したように、気化のない西学を同じ論理によってここで批判するのである。
水雲が実のところ東学の創道において最も自負していたところもまた修心正気であり、これは西学に対してのみならず儒学に対してもそのように述べていたという60)。東学と西学の差異が修練方法の有無であるという水雲の見解は、東西洋の学問に対する卓見であった。東西洋の霊性を統合したと評される著名なトランスパーソナル心理学者ケン・ウィルバー(Ken Wilber, 1949- )もまた、ドイツ観念論のような体系的哲学さえも修養論がないことが西洋思想最大の弱点であると指摘したことがある61)。ケン・ウィルバーは現代思想における最も緊急の問題は、西洋の認識論的アプローチを修養論的アプローチへと方向転換することであるという62)。
東学思想に現れた上帝の出現は、正統性理学の立場から見れば怪力乱神に属する異例かつ異端的な姿であった。水雲の天師問答がより異例に見えたのは、水雲の家系が韓国性理学の正統系列に属していたためである。庶孼にも劣る再嫁女の子として水雲の出生は不遇であったが、水雲の父である近菴崔鋈(1762-1840)の学的系譜は退渓李滉(1501-1570)の師弟系譜のうち正統系譜に属していた。儒学者のみならず一般民衆にとっても上帝の出現は異例の状況であったが、意外にも当時上帝と対話したという水雲の天師問答は階層を問わず認められた。東学思想は儒仏仙の多くの伝統に支えられてこれを克服するに至る。
水雲の天師問答が広く受容された背景について、近年の研究は東学発生当時新たに流入していた中国道教の影響を指摘する。とりわけ朝鮮後期の鸞壇道教の影響が浮き彫りになっている。これは今日あまり知られていない中国道教の伝来によるもので、清朝の混乱によって多くの清朝の道士たちが朝鮮に入り、当時朝鮮には「無相壇」という最初の道教集団が形成されたという。さらには高宗皇帝までもが道教経典を国家的事業として発刊するほどであった。水雲の天師問答が上帝との天師問答として認められえた背景には、鸞壇道教の伝来によって当時変化しつつあった朝鮮社会の雰囲気があったとされる63)。
東学の成立に及ぼした道教の影響は、呪文修練と東学歌詞にも現れる。儒教社会において東学が認められえたのは、流入していた道教の影響であるという。東学思想は当時東アジア伝統文明が集約された道教までも包含していた。「東学歌詞」もまた神明との接触による降筆として解釈されうる64)。甑山もまた康節の知識、李太白・杜甫の詩、蘇秦・張儀の弁舌という東アジア知性の三つの精髄、すなわち三つの気運が現れたという65)。実際、水雲は後年甑山によって道教と関連する後天仙道の宗長に任命される。これは東学が道教の精髄を継承していることを示している。甑山はこれを天地の作用(天地之用)である十二運星では胞胎、そして具体的形態としては「造化」として示した66)。
東洋思想において天観は修練の方法と関連する。修練の方法において天観は集約される部分がある。東学修練の最大の特徴は呪文修練であった。正統性理学の立場からも、これは例外的に受容されていた。呪文は詠歌舞蹈の「正易」の事例や時調朗誦の事例のように、儒教においても一部導入されていた。「呪文」は仏教の場合すでに念仏として広く活用されてきたが、朝鮮の儒教主流社会においては異例であった。むしろこのような異例性によって東学はより広く普及するに至ったのである67)。呪文修練の場合、今日西洋の霊性修練にも用いられている東西古今の普遍的修練方法であったが、韓国の場合は東学によって初めて一般大衆の自己修練に導入され、後に新宗教において広く用いられた68)。
儒教もまた東学の成立に多くの役割を果たした。東学は実際甑山によって、儒教の典憲を超えられなかったと評されることもある69)。まず東学は「至気今至願為大降」という代表的呪文である侍天主の事例の内容に見られるように、性理学においても強調される気の役割を強調する。「道気長存邪不入」70)のように、東学は「理」よりも「気」を強調する立場にあったが、東学は上帝を除いては道教の神明についての内容がほとんど現れないという点において、あくまで儒教的次元の「気」から大きく逸脱することはない。
道教的神明が強調されない水雲の上帝観もまた、儒教的天観の影響を大きく逸脱しない。安裕慶は東学が「気」を強調するが、東学の成立背景には退渓から成される理の確立から茶山へとつながる関係を見ることができるという。東学が韓国において可能でありえたのは退渓の影響が大きかったとされる71)。
全体的に見れば、水雲の東学理解において上帝観など理論的次元では儒教の典憲内にあり、術数など形而下的部分においては道教が積極的に受容された72)。実際、東学が一般大衆に広く知られるに至った契機は「術数」の力もまた大きかったとされる。東学農民運動においても、東学農民運動が持続しえた大きな力の一つは術数に対する信仰であった。
形而上学的次元では儒教の典憲内にあり、形而下学的な術数の側面では道教の術数に長けていたということは、東学の儒教的典憲をむしろ強化する役割を果たした。黄玹(1855-1910)の『梧下記文』に現れているように、東学には実に多様な階層の人々が加入したが、その加入目的は極めて多様であった73)。甑山は実際、同じ東学参与者であっても身分解放のために尽力した全明淑(1855-1895)を高く評価し、多くの東学参与者は表面では輔国安民を唱えつつも、内では王侯将相を夢見た人々であると看破している74)。王侯将相を狙って東学に参与した人々は、術数に長けた東学において十分自らの夢を実現しうると判断したのである。尹以欽はそれゆえ東学は一般人にとって『鄭鑑録』の思想がより拡大されたものとして現れ、その後の新宗教のモデルになったとしている75)。
東学の成立に対して仏教が及ぼした影響は間接的であった。仏教の影響は水雲が避身した場所が隠寂庵であり、東学の呪文が念仏と類似するという関係程度にとどまる。東学農民運動が最初に活性化し始めたのは、禅雲寺の弥勒像の腹中にあった李書求(1754-1825)が書いた書を接主孫和仲(1861-1895)が取り出すことから始まる側面もある。しかし因縁法のような前生や祖先に対する信仰は東学において強調されず、大巡思想のような解冤思想は東学思想においては現れなかった。
儒仏仙のみならず東学の成立に大きな影響を及ぼしたのは陰陽思想である。陰陽思想もまた広い範疇の道教に含まれうるが、分離して考えるならば、東学は儒教の周易思想に現れた天地観のように、「天地が鬼神であり鬼神が天地である」という儒教的陰陽観から大きく逸脱しえない。たとえ天の外の天を強調するところから東学は始まり、西学および儒仏仙を批判してこれを超えようとしたとはいえ、神明のような概念を導入しえなかった東学思想は未だ儒教から大きく逸脱しえないのである。これは神明を強調する大巡思想の陰陽観とはやや異なる性格であった。
儒仏仙のような思想的背景のみならず、東学が成立したのは当時の外勢に対する恐怖およびその反作用たる民族感情の影響によるものであって、水雲と甑山の思想に開港期西欧侵略に対する対抗意識が現れているとされる76)。
我もまた東方に生まれ東方に受けたゆえに、道はたとえ天道であっても学は東学である77)
東学は日本に対する対抗からさらに進んで西洋に対する対抗へと拡大する。東学以降「東」という概念は、中国に対する韓国を表す意味から、西洋に対する東洋を表す意味へと変わったとされる。しかし「性理学」のように社会運動としての「学」という概念から出発した東学は、日本植民地を経るなかで内面化していったとされる78)。
東学成立当時の東学指導者たちの国際情勢認識は、中国に限定された範囲において認識されていた。東学歌詞には日本に対する敵愾心が大きく現れているが、これもまた世界を中国中心に解釈した儒教の典憲に近い。
結局のところ水雲の東学理解は、水雲の波瀾万丈の人生遍歴と深い学問そして純粋な心という土台の上に、鄭鑑録の民族主義の影響、身分制撤廃に対する意志、国際情勢に対する無知などを背景として成し遂げられる。その後展開される東学農民運動もまた、このような成立背景は重要な影響を及ぼす。東学は大巡思想に比して理を強調せず気運を強調し、これを金芝河は東学思想に比して大巡思想は日常を強調するとしている。
東学思想の天観は結局のところ、天外天たる超越天を強調し天地に区分される内在天を強調しない西洋の天観とは異なり、天地に区分される内在天を強調し天外天たる超越天を強調しない東西の天観の対立様相のなかに、その解決策として出現する。東学思想の天観が有する自生的近代性は、この解決策において聖と俗を再編し、東西古今の天観を包含するとともに超越する。東学思想の天観は東洋の儒仏仙の長所を最大限受容しようとし、西洋の天観の優秀性もまた包容しようとする。東学思想の天観が有するこの二重性は、早くから金敬宰らによって汎在神観と呼ばれたことがある79)。しかし既存の汎在神観は近代性との連結を通じてその発生背景を十分に明らかにしていない点がある。
近代性は西洋においては科学の問題であったが、東洋人にとっては人種清掃の対象となるか否かという生存の問題であった。今日近代性問題は学術的次元の議論をなしているが、当時の近代性は生存の問題を抱えていた。さらに今日の近代性は東洋の問題ではなく、人類絶滅の問題へと拡大した。困難の末に成立した東学思想の天観は多様な様相で現れる。
侍天主天観のリミナリティの様相
東学は自生的近代性が必要とされた時期に、「無極大道」という概念を新たな天観としてまず提示する。「無極大道」は天の上の天、すなわち太初の宇宙と関連する。これは西洋の近代性がイスラムと蒙古の侵入という東西衝突の状況において、原子論という新たな天観にまで発展したことに比較されうる。天外天を通じて東西洋の天観を包含し超越する東学の天観は、東西洋の天観に現れた系統発生を個体発生として反復する。これは聖と俗の境界を再配置することによって成し遂げられるリミナリティの自生的近代性を示している。
身体がひどく震えながら外には霊妙な気運が接し、内には言葉が教えとして降りてくるが、見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえず、心がかえって怪訝になるので、心を整え気を正して問うた、「いかにしてこうであるのですか」と。答えて言われるには、「我が心がすなわち汝が心なり[吾心即汝心]。人はいかにしてこれを知ろうか。天地は知っても鬼神は知らない、その鬼神というのもまた我なり。汝は無窮無窮の道に達したゆえに、修めて鍛え、文を作って人を教え、法を正して徳を布けば、汝をして長生せしめ天下に輝かせよう」と。我もまたほぼ一年を修めて推し量ってみると、自然な理ならざるはないゆえに、一方では呪文を作り、一方では霊なる気を受ける[降霊]法を作り、一方では天主を忘れない文を作ったところ、節次と道法はただ二十一字[呪文]をもって成すのみであった。」80)
上の例文は水雲が無極大道を受けるときを叙述した部分である。「無極大道」とは何であり、なぜ東学を「無極大道」と表現しうるのかということは、上の例文『東経大全』「論学文」において明確に現れる。東学を無極大道と表現した部分は『龍潭遺詞』においても幾度か出現するが81)、上の例文が詳細である。
無極とは陰陽が区分される以前の状態である太極よりも以前の状態を指すゆえに、太初の宇宙と関連する。天観の側面から見るならば天の外の天、天外天に該当する。したがって無極大道というのは、太極の理を明らかにしたという既存の性理学や、天主を明らかにしたという西学や、宇宙の実体を悟るという仏教を超える天の外の天の道を意味する。これにより上の例文「汝は無窮無窮の道に達したゆえに」にあるように、無極大道は「無窮無窮の道」となる。
無極大道が「無窮無窮の道」となる理由を上の例文では「我が心がすなわち汝が心なり[吾心即汝心]」によって説明する。ここで「我の心である吾心」は「天の上の天」すなわち天外天の心であり、「汝の心である汝心」は水雲に代表される人間の心である。これは天外天すなわち無極の心がすなわち人間の心となるという意味である。これは天地人の起源となる天外天の心が人間の心と同じであるという言葉であって、宇宙において人間の地位が無極と心を通わせる存在となるという意味であるがゆえに、「無極大道」となるのである。
既存の無極と東学の「無極大道」が天観と関連して最も異なる点は、天師問答や降筆のように人間と直接疎通する「無極」すなわち上帝が初めて出現した点である。さらに水雲は初期の天師問答において上帝の意図を絶えず疑い、自らの主張を貫いてかえって上帝の信任を得る。人間と直接疎通する無極という東学の天観は、東洋の同化的天観と西洋の形相的天観を衝突なく調和させる天観として現れる。
東洋の場合を見れば、「無極大道」はまずその名称において東洋の代表的な相関的思惟である無極-太極-陰陽五行の伝統が典型的に現れている。これは東洋の同化的天観と符合する。「万古なき無極大道」という表現は、相関的思惟が完成するという意味として見ることができる82)。さらに「無極大道」という表現は、無極大道が東洋において宗教として展開された儒仏仙の相関的思惟を東学思想が継承するという表現でもある。実際、儒仏仙は天地人が合一する相関的思惟を背景としており、東学の代表的な侍天主思想は絶対的存在を内面化する方向に発展してきた儒仏仙が超越天として成熟する形態であるという先行研究がなされてきた83)。
次に西洋の形相的天観の場合は、東学の「無為而化」概念に現れる。東学において初めて使用される「無為而化」は、道教の「無為自然」と西学の「造化」とを連結した概念として考えることができる。無為而化は陰陽調和という天界・地界・人間界内の調和を、創造主と三界を連結する天外天の調化にまで連結する意義がある。東学は造化において創造の概念を強調する造生者としての人格神的な天外天概念を再活性化する。水雲は呪文を解釈しつつ「造化」とは「無為而化」を意味し、「定」とは「合其徳、定其心」を意味するものと解いた84)。
東学思想の天観と東洋の天観との差別点は、侍天主に出てくる「造化」概念であるという。造化は東学思想の核心主題語であり、東洋の天観を超えて東西洋の天観を連結する核心主題語であった85)。
造化は東西洋の伝統思想において多様に現れる。第一に語源的には創造と進化の縮約語である。これは成と生成、保存と創造、陰陽の原理として多様に現れる。第二に、実際の宗教用語においては陰陽の造化、陰陽五行造化神将などとして現れる。大巡思想においては東学思想の「作乱」と大巡思想の「治乱」も皆造化であるといい86)、西学の創造主に該当する造化主の本来の名前が「九天大元造化主神」であったという87)。
西洋の場合「造化(Harmony)」は「平和」を意味する聖書の主題語であった。聖書において造化は「秩序」と「平和」を意味する天の象徴であった。西学および東洋の道教においても造化は天・地・人の属性として強調された。しかし西学の造化は分析的思惟の造化であり、道教の造化は相関的思惟の互いに異なる造化であった。造化のような相反する要素の新たな組合せを、人類学においては境界を意味するリミナリティとして理解してきたが88)、東学思想は新たな相関的思惟の造化概念によって両者の造化を連結する。東学思想の造化は「侍天主」「無為而化」「天地鬼神」「内有神霊 外有気化」などに区分されて現れる。この四つの造化は既存の道教と西学の造化が連結された概念であって、天観ではあるが超越天の立場からは天地の性格に該当するゆえに、地観に該当することにもなる。
まず「造化」は「無為而化」の形態で東学思想において現れる89)。「無為而化」を見ると、水雲は東学の核心を「無為而化」として総結するという90)。水雲は東学を「無為而化」とし、無為而化は霊妙なる至気の調化作用全体を指し91)、心を守り気を正し本性に従って教えを受ければ、自然のなかから造化が現れると説明する。彼が敬する天主は宇宙万物を主宰する気化の神霊であり、彼が迎えた神は無為而化の造化を通じて作用し、世界のあらゆる所に遍在するという。彼は「気とは虚霊蒼蒼であってあらゆる事に関与しあらゆる事に命令する渾元なる一つの気である」92)という。
東学が無為而化を通じて東洋と西洋を連結したのは、伝統と近代の二重対立をリミナリティによって仲裁しようとする過程である。実際『詩経』に現れる東洋伝統の創造主としての上帝は『聖書』「詩編」の創造主と五つの人格的属性を共有しているという93)。このうち創造主としての属性が現れた文句は、中国古典においては『説文解字』94)と『詩経』95)を通じても明確に現れるという。
人格的天霊との接神の後も、水雲は道教と連結して天主の教えを非人格的な自然の調化と運動原理として説明する。水雲の体験が洋学(西学)とどのように異なるか問われたとき、彼は天運も同じく天道も同じであるがその理が異なると敷衍した。水雲が言及した理の差異は学びの方法、すなわち学の差異を指すと見ることができるという96)。
水雲の天師問答はまた逆に、天が水雲を選んだ理由をも推測させてくれる。水雲は悪魔の誘惑を退けたイエスのように、現実的な成功を提案する上帝の建議をことごとく拒絶し、ひいては既存の儒仏仙を通じた成功さえも拒絶する97)。東学の侍天主という概念は、このような上帝との真摯な対話を背景とする。このような信任関係は東学農民運動時には、東学農民運動の参与者は銃弾をも防ぐことができるという信念にまで拡大される。
水雲の天師問答が他者の信頼を得ることができた点は、天が自らを顕す人物として水雲のような最も問題的な人物を選んだという点である。天は既存の既得権者でもなく下層でもない、極めて中間的な存在である水雲に現れたのである。
水雲は当時その時代が生み出しうる最も不幸なホモ・サケル(Homo sacer)であった98)。水雲は最も正統的な性理学宗統にある最も卓越した学者である父を持ったが、庶子よりも低い再嫁女の後孫という地位に置かれねばならず、それすら父が亡くなり家まで火災で焼けてしまうと、水雲は全国を流浪して生計を維持せねばならなかった。結局水雲は流浪さえもままならず家に戻る。天が現れた方が水雲のような存在であるという点において、人々はむしろ信頼を寄せた。不運な水雲ではあったが、水雲もまた父に劣らぬ非凡さがあり、術数にも長けているという意味の「卜術」という号もあった。
東学思想の造化概念が西洋と異なる点は、相関的思惟の造化であるという点である。東学の侍天主思想が示す相関的思惟が伝統の連続と変化であるという点が、儒仏仙思想の伝統からより明確に現れるという先行研究とともに、認識論的側面における先行研究もまた活発である。東学思想に現れた相関的思惟の認識論的側面の連続と変化については多くの先行研究があり、まず先行研究の分析を通じてその概要を見ることができる。
東学思想に現れた相関的思惟に関する先行研究を考察するためには、再び相関的思惟の定義について検討する必要がある。陰陽五行に代表される相関的思惟は、部分と部分とが相互に連関しているという意味の相関という用語を使用する相関的思惟であるが、部分が部分として連結されるということは結局のところ全体において部分が連結されることであって、結局のところ全体と部分を統一的に見る有機体理論や、全体の観点から部分を考察するホリスティック理論あるいは全息的観点といえる。すなわち相関的思惟とは拡大して定義するならば、有機体的思惟や全息的思惟を包含する。
東洋の思惟たる相関的思惟を全息論や有機体論にまで拡大するならば、東学に関する相関的認識観点の先行研究は国内外的に極めて広範な研究へと拡大される。先に海外の事例を考察したので国内の場合を見るならば、狭い範囲においては国内に相関的思惟を翻訳紹介した李昌一の研究を挙げることができる。東学思想に積極的に適用しなかったとはいえ、李昌一の研究は東洋思想に対する研究はまず相関的思惟によってアプローチすべきだという西洋の東洋思想研究の主要方法論を国内に紹介し、東学思想に大きな影響を与えた邵康節の哲学を相関的思惟の方法論によって分析した99)。
東学が「開闢」という用語を通じて東アジア伝統と断絶した思想を主張しているように見えるが、東学思想に現れた東学の定義は「東学」という用語が初めて現れる文「論学文」に見られるように、東学は相関的思惟の代表的理論である陰陽五行に基づく学問であることを定義している。実際、相関的思惟に関する理論家たちにとって代表的な相関的思惟の理論家として指目された新儒学の陰陽五行理論家である邵康節は、東学思想においても大きな影響を及ぼした思想家として指目されている100)。東学思想の「再びの開闢」という用語もまた、邵康節の影響下にあった101)朝鮮時代後期の知識人によって広範に使用された用語であった102)。
全息論や有機体論にまで拡大するならば、東学思想に現れた相関的思惟に関する国内の先駆的研究は金相日によって進められた。金相日は東学を「新西学」と定義し、東学をホワイトヘッド過程思想の先駆的な東洋版として解釈する103)。その後金相日は東洋思想を「ハン哲学」と命名し、東洋思想をフラクタル科学にまで拡大して古今の西洋思想全般と比較し、東学の相関的思惟に現れた特徴を理論的に展開する。
東洋において造化が有する用語が現れる代表的な用語は侍天主である。東洋の無極大道と西洋の無為而化として現れる東学の天観は、侍天主に総合される。侍天主はとりわけ東学思想の天観を代表する概念である。「侍天主造化定」という東学の代表的呪文に現れているように、侍天主は造化の根本である。東学と性理学の共通点を研究してきた研究者たちは、東学の侍天主の造化が内容的には性理学的意味の造化と類似しており、東学の他の句「気化」「無為而化」を総括する概念であるという。東学の「論学文」において「侍」は「内有神霊、外有気化、一世之人、各知不移」とされる104)。これは「侍天主」の意味が、霊なる心と気化する身体を持つということを世のすべての人が悟って、その状態を維持していくこと、すなわち創造的に進化[造化]する本体[体]、すなわち「至気」に皆ともに帰一するということである。したがって侍天主がすなわち同帰一体であり「造化」であるという105)。
侍天主がすなわち内在的超越であるという点において、東学思想は既存の儒教および道教と修養の方法を共有する106)。ただ東学思想は儒教とは異なり理法を道教のごとく実体化し、道教とは異なり創造主という人格神が登場する。「侍天主」を通じた東学思想の造化においては、儒教や道教とは異なり「隠れた神」が登場する。造化において進化の側面のみが強調されてきた道教伝統よりも、東学思想においては東西融合の側面において創造の側面が強調されたのである。
「侍天主」が西学と共有する共通点は、人格神の登場のみならず人格神との出会いの場面である。これについて西学との共通点を強調する研究者は、水雲の天師問答は使徒パウロの経験と類似しているという。過去の韓国人の宗教体験において、神を水雲のごとく直接に出会った事例はないという。この点において東学の天主は基督教の影響を受けたものであるとも評価する。ただし水雲は東洋の自己省察方法である内面的超越を、韓国の伝統的な神信仰として調和したのだと説明する107)。
東学思想の天観に現れた自生的近代性は、天外天と人間の心との疎通、ここから生じる聖と俗の再配置、すなわち脱境界のリミナリティの出現である。これは政治・社会思想としては常民を両班にする身分上昇の意味にもなり、天地人の関係において冷遇されていた地と人間の地位上昇にもなる。天外天の出現を通じて東西洋の天観を包越する東学の天観は、東西洋の天観に現れた系統発生を個体発生として反復し、リミナリティを通じた自生的近代性を示している。
造化定地観の自生的近代性
西洋の質料的地観
天観が天外天たる超越天を強調するか、あるいは天地に区分された内在天を強調するかの可否によって、地観もまた異なってくる。超越天の立場において地は天地に区分された天地をすべて包含する表現となり、天地を陰陽の内在天とみなさない西洋の実体本位の存在論的宇宙観においては天地、とりわけ地は形相が実現される質料的な存在となる。
西洋の質料的な地観は、天外天たる超越天をイデアとみなすか、唯一神とみなすか、あるいは唯物論的理性とみなすかに応じて異なってきた。天外天たる超越天を唯物論的理性とみなす今日、質料的な西洋の地観は原子論的世界観となった。
万物がもはやそれ以上分割しえない原子と分子から成るという近代の原子論的世界観が登場するまでは、マテオ・リッチの場合に見られるように、西洋もまた地水火風の存在論的な相関的思惟をしていた108)。ただし西洋の地水火風という相関的世界観が東洋の陰陽五行の相関的思惟と異なる点は、マテオ・リッチのようなイエズス会神父たちが述べたように、地水火風は実体から成る相関的思惟であり、陰陽五行は属性から成る相関的思惟であるという点であった109)。原子論的世界観は地水火風の実体論的属性を分析的方法によって極大化させた理論であった。
「万物の根源は水」とするタレスの世界観は、万物を「水」という実体によって説明する実体論的相関的思惟の代表的な例である。その後エンペドクレスの四元素説が拡大し、四元素説はプラトンとアリストテレスに受容されて、後にマテオ・リッチに至るまで西洋の世界観を構成する。地水火風はプラトンのイデア界110)とアリストテレスの形相論にも適用され、四元素の中央にある第五元素が他の四元素の均衡をなす体系である111)。
地水火風はエンペドクレスが導入したものではあるが、地水火風はそれ以前すでにヨーロッパ-インド語族の共通した世界観として伝承されてきており、古代インドのバラモンの宇宙観にも地水火風は現れ、これを継承した仏教の世界観もまた地水火風から成っている。さらに地水火風は中国にも影響を及ぼし、中国の水火風三災論にもなった。仏教の天界観が現れる『阿毘達磨倶舎論』の世界観において世界は地水火風の輪の上に浮かぶ存在として現れ、その上に「鉄囲山」と呼ばれる「金剛山」が宇宙の中心を防衛し、その中心の上に須弥山が二十八天を成して存在している112)。この地水火風の天界観は中国道教の三才観と結合して三十六天となり、後代の大巡思想の天界観にも現れる113)。
地水火風を西洋の相関的天観・地観・人間観理論にまで連結しうるのは、地水火風に内在する相関的原理によるものである。インド-ヨーロッパ語族に共通的に現れるもう一つの共通点は三機能体系であり、これはデュメジルが明らかにしている。デュメジルは、インド-ヨーロッパ神話の三機能体系がヨーロッパの天観・地観・人間観として発展する背景は、三機能体系と地水火風が上昇と下降という同一の原理によって構成されているためであることを明らかにしている114)。
デュメジルはインド-ヨーロッパ語族の想像界の人類学的構造においては、天観・地観・人間観において上層部の宗教機能、中層部の軍事-政治機能、下層部の生産-美学機能が現れるという。デュメジルはギリシア・ローマ神話のトロイア戦争に現れる三女神ヘラ(宗教)-アテナ(政治)-アフロディテ(生産)の三機能が、インド神話のミトラ-ヴァルナ-アリヤマンの構造と同じであることを明らかにしている115)。三機能体系は欲界、色界、無色界という仏教的三界とも類似した構造として現れる。
地水火風と三機能体系は中央アジアに起源を発し、東西洋に広く影響を及ぼした。東アジアの天地人三才にもその影響が現れている。天地人三才を根拠とする東洋の三界、すなわち天界、地界、人界は西洋の三機能体系と空間的区分は類似しているが、「実体」よりは「属性」を強調するという差異がある。同じ「水」「火」であっても、地水火風の「水」「火」と陰陽五行の「水」「火」が異なるのは、実体と属性の差異となる。したがって両体系を比較すれば、「水」「火」の機能は互いに反対に現れることもある。
天の外の天、すなわち超越天の形相が実現されるという意味としての西洋の質料的地観は、近代物質文明の発展に寄与した。しかし物質に偏重した西洋の質料的地観は、新宇宙の神明体系をすっかり崩壊させ、天下をかえって尽滅の境地へと導く契機となり、近代性危機の出発点となった。
東洋の応縮的地観
西洋の質料的地観が天の上の天、すなわち超越的天の属性に応じてイデア、唯一神、唯物論的形相に従う質料的地観として異なって現れたのとは異なり、東洋の応縮的地観は超越天と天地に区分された内在天、そして天地神明の役割に応じて三通りに異なって現れる。
まず天を超越天として見る場合、地は天地をすべて包含し、超越天たる上帝に対して地の概念としての天地は、神明として上帝の天地化育の意を役割を分担して実行する存在として現れる。このとき天は同化、地は応縮の役割を果たすことになり、地は天地の気を形体、あるいは器として実現する存在となる。これを易学では乾坤として表現してきた。役割が分担されるに従って、天の神は同化する役割、地の神は応縮する役割を担うこととなる。しかしその役割を果たす神明が任命されるのは天において調整されるゆえに、伝統的に天の神は天神、地の神は地示、人の場合は人鬼として叙述されてきた116)。
今日、天地人三才と陰陽五行は共通的理論体系を構築し、「属性」を「実体」よりも強調する。陰陽、三才、五行は天と地の関係をそれぞれ異なる観点から表現する。陰陽の場合は再び区分されるが、西洋のように形相的な超越天と内在的な天地を包含する質料的地概念としての陰陽がある一方、東洋のように内在天を強調する同化の天と応縮の地に区分される。一方、三才はこの東西洋の天観をすべて統合する点がある。すなわち超越天、内在天、内在地の三つが集まって三太極三才を成す。五行はこの陰陽と三才が出会って、三才観が陰陽として、陰陽が三才観として拡大された概念となる。三思想の起源を遡れば、互いに異なる出発点から三思想が出会ったものとして現れる。地水火風と陰陽五行のいずれが先に影響を与えたかは明確ではないが、相互関係のなかで陰陽、五行、三才思想が生まれ、属性という側面において結合して現れる117)。
東洋の天、地、人は系統発生が個体発生を反復するゆえに、天地の関係を説明する乾健坤順は、地の応縮が天の同化を包含することになる。伝統的に東洋の坤道は『易伝』に詳細に現れている。
至極なるかな!坤元よ!万物が坤元に基づいて生じる。これによって順に天道を継ぎ、坤の万物を載せる厚い徳が無限であり、含み、広く、輝き、大きくて万物がみな亨通する。118)
上の例文において地は坤の作用によって天が同化した気を応縮する器と形体の作用として現れる。李英蘭のリミナリティ解釈という観点から見れば、これは天(1)が地(1+2)のリミナリティへと発展するものである119)。
東アジアの伝統的神話において天界、地界、人界の区分が現れるのは、堯舜時代の最高文明民族であった共工族からである120)。遺物と記録としては戦国時代から現れるという。大巡思想に現れる地下文明神のように、東アジア最初の文明民族である共工族は神話において地下神として現れる121)。地下に文明神が現れるのは、天地を相関的に眺める相関的思惟に起因する。
内在天の立場から眺める地は、超越天の立場から眺める地よりもはるかに生命と関係し、比重が増大する。風水地理と祭祀は伝統文化のアイコンであった。生態学において地は今日、天と同じくらい重要性が強調されている。東アジアの自生的地理学といえる風水地理学は、東アジアの伝統的地観であり、これは陰陽五行においては陰陽五行の中心を意味する土の重要性として現れた。天観・地観・人間観において相関的思惟が重要であるのは、相関的思惟が相生の根拠を提示してくれるためである。地の重要性は相生的天観・地観・人間観の主要部分を占める。とりわけ能力はより有していたが地位は低かった地の地位上昇、すなわち正陰正陽が、人間の解冤、すなわち相生のためにも核心となる。東学思想の「再びの開闢」と大巡思想の「三界開闢」の大きな差異もまた相生にある。大巡思想の三界開闢は相生を語り、相生のために解冤を語る。解冤は神明を通じて可能であり、相生は陰陽の地位均衡が成し遂げられた後、解冤を通じて成し遂げられる。
東アジアの伝統的地観において地の重要性は天地という用語によって代弁される用語に現れた。代表的に天円地方は天が円いとする地動説によって明らかにされた天動説の誤った主張を意味するのではなく、「天道之謂円 地道之謂方」の略語であって、時間を表す「宙」の一次元的性格、空間を表す「宇」の二次元的性格を指すといえる122)。周易の天は「乾」というが、この「乾く乾」は「鳥の乙」の作用をなす時間の乾いた属性を表す。
三天両地は天は三の原理、地は二の原理によって動くという周易の核心概念である。周易は自然を象徴する天地人を父-母-息子という家族関係として理解してきており、父と母に該当する天地の属性を対比させる命題を豊富に作り出した。参天両地、天円地方、天長地久、天道地徳はみな父-天は参-円-長-道を意味し、母-地は両-方-久-徳の属性を持つことを示した。天地人と精神分析学の複雑系的解釈は、エディプス・コンプレックス(Oedipus Complex)とほぼ類似しているといえる。精神分析学の複雑系的理解として三数分化体系はフラクタル美学の一つと見ることができ、三数分化体系が有する対称性はギリシア美学の基本命題であった。
伝統思想において地は天地人との相関関係の一軸を担った。伝統思想は自生的近代性よりは神学や神話として理解されてきたが、大倧教などを通じて自生的近代性として理解しようとする動きがあった123)。三数分化体系は万物を天地人という三つの構成物の複雑系的拡大として見る体系である。三数分化体系は西洋ではカントの三元体系、フロイトの父-母-息子、聖父-聖子-聖神、東洋では天地人体系として、それぞれ万物の共通した内面構造として認識されてきた124)。三数分化体系はエディプス構造が有する対称性という観点から東西洋が共通する。三数分化体系は人文-社会-自然科学を統合的に照明する。
鄭在書は中国の神話学はアンチ・エディプスの神話学であり、西洋の神話学とは区分されるという125)。基督教神学においても父の役割のみならず地と人間の役割を強調する神学として天地人神学が登場している。生態神学などにおいて地と人間の役割が強調されることを既存の神学と統合しうる契機が、檀君神話と韓国固有の三数分化的世界観である天地人思想に現れる126)。ただし天地人神学もまた道教的神明観のない基督教神学であるゆえに、地の神が母のような神であるという主張までは行いえない127)。許虎益は天地人神学に関連する神学研究者として、尹聖範128)、金光植129)、朴鍾天130)、柳東植131)、李正勇132)、李恩仙133)、徐南同134)らを挙げている135)。金洽栄は類似の論理で既存の神学を、父を強調するロゴス中心の神学、母を中心とするプラクシス神学、そして望ましい神学として第三者を強調する宇宙-キリストを強調する道-神学へと転換することを要請する136)。李恩仙は女性学者として、韓国的神学の特徴を黄弼浩とともに天地人の加宗として解釈することもある137)。
太極を創造と保存の原理としての複雑系科学的概念として理解しうる陰陽の概念は、東洋哲学を存在論的に研究してきた中国哲学者の牟宗三によって初めて提示された。彼は西洋哲学が「実体」の観念を通じて人格神(personal God)を理解するが、中国哲学においては作用(function)の概念を通じて天道を理解するという。そのような作用の観点から存在を見るとき、乾元は創造性原則であり、坤元はいわゆる保存の原則となるという138)。大巡思想は太極が円から起源するというゆえに、牟宗三が太極を円運動の作用として見たことと一致し、万物を複雑系的円運動として見たがゆえに、太極を複雑系の基本原理として見たといえる。円運動から対称性、非対称性、超対称性が生じるといえる。
天の外の天において形相の質料として地を眺める西洋とは異なり、超越天の天地化育の実践が応縮する場としての東洋の地観は、西洋とは異なり地を支配と征服の対象として見ず、むしろ風水地理のごとく崇拝の対象とみなした。しかし性理学が超越天を排除するに従って、東洋の地は内在天の対としてのみ転落し、東洋の相関的思惟は固着化した。西洋の実体的思惟は相克の基調が強化される傾向があるに従って、両地観は近代に至って衝突することとなる。
東西洋地観の衝突と相克化
地観の衝突
土を崇拝の対象とみなしてきた東洋人にとり、土を質料として扱う西洋人は極めて衝撃的に映った。互いに均衡を保っていた両勢力は、マテオ・リッチ以後、急速に西洋へと傾いていった。地観をめぐる東西の衝突は大きく二段階で現れた。第一はマテオ・リッチの『天主実義』に示された超越天に依拠する質料的地観のもたらした世界観的衝突であり、第二は補儒論論争以後、東洋から退いた西洋が再び武器を携えて現れた物質的衝突であった。
まず世界観的衝突を考察すると、それは西洋の質料的地観に前提される存在論的世界観と、東洋の地観に内在する応縮的地観との衝突であった。東洋の理気論は東洋思想の中ではアリストテレスの存在論に最も近い思想であったが139)、マテオ・リッチの批判に屈したのは、アリストテレスの地水火風四元素説と四原因説が当時の科学水準において神を論理的によく説明しているように見えたためであった140)。当時の科学水準では、実体を別途認めない陰陽五行と理気論の場合、アリストテレスの理論に従えば論理的でない理論となってしまったのである。
西洋の地水火風と比較してみると、陰陽五行における土と木火金水の関係は、東西が明確に差異を示す部分である141)。西洋の地水火風もまた、東洋の陰陽五行における土と同じ役割を担う第五元素エーテルをもっていた142)。ただし西洋の第五元素は唯一神のごとく地水火風とは別個の存在であったのに対し、陰陽五行の土は別個の存在でありながらも木火金水と運行を共にする内在的存在であるという点で異なっていた。邵康節の陰陽五行的神人関係は、超越的な西洋の神人関係と内在的な東洋の神人関係を同時に受容しうるものであったがゆえに、後代において再照明されることとなる。
マテオ・リッチは陰陽五行を批判する際、地水火風と同じく陰陽五行説はアリストテレスの四原因説では解釈できないという点を持ち出した143)。四原因説はマテオ・リッチが生きた十七世紀に至るまで、宇宙を説明する西洋の最も合理的な理論とみなされてきた。マテオ・リッチは当代最高水準の科学者でもあったが144)、陰陽五行を批判したのは原子論の立場からではなく、今日の観点からみれば陰陽五行と大差ないように見える地水火風理論によるものであった145)。
仏教以後、存在論的自然観に初めて接した当代の東洋知識人にとり、地水火風はたとえ相関的思惟であったとはいえ、世界観の崩壊をもたらすほどの大きな衝撃として迫ってきた。西学の東洋受容において最大の問題は祭祀の問題であった。西洋では典礼論争が教皇庁の立場の問題であったが、新たに現れた東洋の西学信者たちは命を賭して西学を信じなければならなかった。世界観の衝突は西学の禁止により東洋の勝利として現れたかに見えた。
次に物質的衝突は、水雲が東学を創道する時点を前後して急速に現れる。北京条約など、西洋に対する中国の敗北は天が崩れ落ちるほどの衝撃であった。魯迅(1881-1936)の『阿Q正伝』によく示されているように、衝撃に陥った中国人は西洋の支配により人種浄化を被るのではないかという恐怖から、精神的勝利のごとき精神分裂の境地にまで至った。中国は戦国時代に周の封建体制が崩れたように、再び一度天が崩壊する経験に直面した。ソ連が月へロケットを送り、全米国人がロシアの核の脅威に怯えねばならなかった状況と同様であった。水雲は放浪生活を通じて早くから西洋の情報を知ることができたという。『龍潭遺詞』には当時の衝突をよく描写する箇所が現れる。これにより自生的近代性は東洋において極めて切実な問題として迫ってきた。
天地関係の相克化
天観と地観の変化は伝統的な天地関係をも変化させた。まず西洋の場合、マテオ・リッチの東洋文化紹介は、超越的な天観・地観からなる西洋文明に東洋の内在的天観・地観を導入させ、科学技術の急激な発展として現れる。当初、天地の属性的関係を説明するために考案された陰陽五行は西洋へ渡り、実体的関係を説明する自然科学に適用され、科学技術の発展をもたらした。西洋ではマテオ・リッチ以後、質量、元素、体積、重力、速度などアリストテレスの科学とは異なる新たな科学概念が導入され146)、科学技術に迅速に適用され、社会は急速に資本主義化していった。
内在天が科学技術に導入されて物質文明は発展したが、むしろ西洋の場合は第五元素と地水火風で代表されていた天地関係が、唯一神と万物という相克関係に転落する。続いてまた、地水火風の相関的属性すら消えた原子論的世界観によって、天地関係はさらに相克化される。近代科学は客観性を名分として、地水火風の属性を天観・地観・人間観から除去したが、相克の側面からみれば客観性は名分にすぎないとみることもできる。
天地関係の場合、地水火風の天地関係の相克化は、唯一神に対する天尊地卑として現れる。西洋の地水火風の概念において、天は第五元素、地は地水火風に該当する。地水火風が出現した当時は、映画『第五元素』にも描かれたように、第五元素は既存の地水火風を連結する中心要素であった。この第五元素が物質と財利という理性によって代替されたのである。
西洋の第五元素は東洋の「土」概念と役割が類似するが、西洋が異なるのは東洋と違って第五元素が超越的な立体であるという点である。西洋は第五元素という概念によって立体を認め、東洋より発展する。ただ問題は、西洋ではこの第五元素が再び平面へと内在化されることを連結できず、むしろ立体に留めて固着させてしまった点である。第五元素がキリスト教と結合することで、第五元素はかえって超越性へと固着していく。
西洋の場合、地水火風の相克化は粒子論として現れる。神明の地位から剥奪された地水火風は、いまや原子や分子のような部品に転落し、人間の支配下に置かれる。天と地の関係は絶地通天となり、もはや相互関係が断絶され、人間は支配しようとし、自然という名に変えられた天地は、生態学が指摘するように人間に対して自然の報復をする存在となる。
西洋の超越天を拒否した東洋の天地関係もまた急速に固着化される。超越天が排除された天地関係はリミナリティの要素が欠落し固着化する。天円地方、天文地理などで代表される東洋の古典的天地関係147)は、天尊地卑、陽尊陰卑の天地関係として相克化されていく。
東洋の伝統的天地関係である陰陽五行の天地関係もまた、神明が地に奉安された地尊の状況にもかかわらず、抑陰尊陽と陽尊陰卑の世界観によって排除される。一陰一陽之謂道、天道地徳、天円地方という概念のように、天地関係は水平的な対応関係であったが、歴史が進むほど天尊地卑の関係が公式化される。東洋にも神奉於天、神奉於地という概念に従って地尊の時代であることは知られていたが、地に奉安された地尊の神明は明堂という祈福の対象に転落してしまう。
東洋の場合、天尊地卑という相克化が進行するのは、地水火風の場合とは逆に、土の内在化に伴う上帝概念の忘却に起因する。陰陽五行の天観・地観・人間観の場合、相克化された天地関係は土の実体化として現れる。当初、天と地を同時に意味した陰陽五行の土概念は、相克化を経るなかで天の概念が色あせ、地の概念へと転落する。第五元素が唯一神へと極端化された西洋とは正反対の相克化が、陰陽五行の天地関係において展開される。『抱朴子』に現れる土克水のように148)、陰陽五行において土は五行の陰陽と同様の核心的要素である。この土克水の物質化は、大巡思想に至って初めて再活性化へと転換されることとなる。
東学思想の造化定地観に現れたリミナリティ
東学思想の造化定地観
超越天に対する東学思想の強調に伴い、地観においても東学思想は従来の地観とは異なる地観を示す。天を天の上の天、すなわち超越天と仮定すれば、地は既存の天地、すなわち超越天の造化対象、無為而化、気化の存在として現れる。したがって東学思想の地観においては地の意味が明確には現れず、造化、無為而化、気化などの概念が強調される。
東学思想の天観が天師問答によって始まったとすれば、東学思想の地観は天師問答以後、水雲の熟考と経験が伴いつつ徐々に形成されていく。水雲の数多くの経験と知識が天師問答と融合しつつ地観として成立していくのである。
実際、東学思想の成立には西洋の近代性という西洋の影響もあったが、東洋思想の内在的発展もまた影響を及ぼした。東学の自生的近代性が成立するうえで、東学思想を取り巻く外部的環境がこのようであったとすれば、内部的には中国近世に成立した鸞壇道教などの流入があった。天観のみならず地観の形成にも道教の影響が強調され、研究されたことがある。
これを細部にわたって検討すれば、通神道教の流入と内丹道教の流入とに区分しうる。朝鮮に導入された従来の道教は、北窓鄭磏(1506-1549)の『龍虎秘訣』や権克中(1585-1659)の『周易参同契註解』にみられるように、修練中心の内丹道教であった。しかし壬辰倭乱以後、関羽に対する信仰が導入され、中国で禁書化された『玉枢宝経』が巫俗などに広く普及することにより、朝鮮においても内丹道教に対比される通神道教と鸞壇道教、すなわち呪文と符籙で神と直接疎通する道教が広く普及する。神との疎通を強調する通神道教と、符籙に関連する名をもつ鸞壇道教は名称は異なるが、内丹道教と比較して神を強調するという共通点がある。時期的には内丹道教が通神道教より先に伝来した。内丹道教が両班に主に伝えられたとすれば、通神道教は大衆に影響を及ぼした。性理学中心の朝鮮社会に両道教の導入はあまり知られていないが、当時の知識人社会には西学に匹敵する影響力があった。中国もまた清朝の混乱期に多くの道士たちが韓国へ移住してきたという。
新たに流入した道教は西学と関連して朝鮮において新たな発展を見せた。当時の朝鮮は、旧韓末に朝鮮を訪れた外国人の記録に現れているように、すべての希望を失い労働意欲が枯渇し、大部分の民が仕事を放棄した状態であった。韓国の代表的なカトリック聖地である「天主教海美国際聖地」には、「ヤソの墓」のような一般庶民として殉教した人々の墓が数多くある。当時の一般庶民は保障さえあれば死が生よりましな時代であったため、鸞壇道教の通神道教や西学の天主信仰が一般庶民から大きな反響を得るに至った。
長年蓄積されてきた性理学中心の伝統的価値体系が危機を迎え、朝鮮社会全体がアイデンティティの危機に直面していた。朝鮮の場合、『天主実義』と西学中源論が同時に受容されることでアイデンティティ論争が起こる。1798年に沔川郡守として在職していた燕巖朴趾源(1737-1805)が、カトリック教徒を説得して寛大に解き放った事例にみられるように、当時の性理学の知識人たちは西学と東学の方法論的差異を熟知しており、西学に多大な関心を寄せていた。
これに新たに流入した道教は、西学に対する対応として注目を集めた。鸞壇道教の流入は、当時としては破格的な呪文と霊符という東学の儀礼を一部の両班階層が大きな抵抗感なく受容した理由をも説明してくれる。東学当時にも一部の両班を中心に鸞壇道教関連の修行を独自に行う団体が、後代の東学や大巡の宗団史に現れる。結局のところ東学は、東西の世界観が衝突するなか、西洋近代性の弊害が露呈し危機に陥った東洋を救済する次元で提示された思想である。
東学思想成立の背景が、西洋近代性の東洋的起源と鸞壇道教の流入、西学の流行であるとすれば、相関的思惟の側面からみた東学思想の概念的成立は、大きく東学、無極大道、天地鬼神、上元甲の再開闢といった順で現れる。時間的順序に従う東学の成立に関する先行研究は数多くなされてきたが、概念的成立の順序については多くなされておらず、東学思想の概要把握が困難な観がある。二つの思想を比較するにあたり、概念の歴史はとりわけ重要である。
上述の概念成立順序を順次みていけば、まず「東学」の場合、先行研究は大きく二つの立場から水雲が「東学」という用語を採択した理由を説明している149)。第一は東学を西学に対立する意味として150)、第二は東学を東西の学問を統合した立場として代表されると考えるものである151)。
東学の地観成立の背景に道教の影響が大きかったが、実際の地観成立は天師問答後の水雲の一年余りの煩悶の末に、東学思想の展開とともに成立する。自生的近代性の確立に関連してみた東学思想の展開は、大きく四段階で現れる。第一に天師問答が消え、隠寂庵で執筆する段階、第二に矢を避ける方法のみが知らされる段階、第三に水雲死後、東学農民革命に至る段階、第四に東学農民革命の失敗以後、天道教へと移行する段階である。
東学思想の成立は、1860年4月5日の神秘体験から隠寂庵に至るまでが東学思想の成立であったとすれば、隠寂庵以後から天道教の設立までが東学思想の展開といえよう。東学歌詞は1864年大邱監営に至るまでの天師問答と水雲の執筆、そして散逸した資料に対する崔時亨と東学徒たちの記憶によって成立する。大巡思想においてもまた、この期間に天命と神教を水雲が受けていたとされる152)。水雲は庚申年9月15日に自ら天主の言葉を自得した後、天師問答を行う必要がなくなったという153)。水雲が上帝より布徳を勧められ「東学」を闡明し、『東経大全』と『龍潭遺詞』を執筆し始めたのもこの時からであるという。結局、以後の東学には水雲の思惟が多く反映されることとなった。
『典経』では、以後展開される水雲の東学思想理解は、当初は康節の知識、李白・杜甫の詩、蘇秦・張儀の弁舌という三つの気運の入った優れた理解であったが、惜しくも儒教の典憲を超えることはできず、やむなく天命と神教を取り戻したという154)。実際、癸亥(1863)年10月28日、水雲は自らの生誕宴で夢をみた後、矢を避ける方法のみ天師問答を通じて聞かされるようになった155)。崔時亨と別れる際、水雲はその矢を避ける方法すら知り得なくなり、上帝の補佐が絶たれてしまったという。水雲は1863年12月20日、朝廷から派遣された宣伝官鄭雲亀によって慶州で逮捕される。実際この時、水雲は自らの逮捕を全く予期していなかったという。崔時亨が崔水雲に会って問答した内容を記した『道源記書』には次のような記録がある。
いつしか10月28日となり、40歳の誕辰を迎えるに至った。「先生はもともと宴会を催すことを心中煩わしく思っておられたが」、(神師をはじめとする)弟子たちが密かに準備し、盈徳接で盛大な宴を設けた。宴席に着いた師は箸を取りつつ「世間では私を天皇氏と称することになろう」と言われた。天皇氏とは文化前時代より文化時代を開いた最初の君主をいう。大神師は自らが新たな世を再び開いたとの意味で天皇氏を自任したものと解釈される。宴席を退けた後、大神師は弟子たちに「興比歌」を一つ一つ講じ受けてのち、数日前にみた奇異な夢の話を語ってくれた。「夢に太陽の殺気が射し込んだかと思うと、火に変じて私の太腿の上に人の字を長らく描いた。目覚めて太腿を見れば、紫色の痕跡が一点残り、三日の間消えなかった。それ以後、上帝の教えがなくなったのである。」156)
天皇氏に関する言及は大巡思想においては金山寺と関連して現れる157)。天皇氏と称されるとの言葉を発した日から天師問答が絶たれたということは妙な符合である。水雲はまた、東学の修練をすれば三年以内に通ずると豪語したともいうが、こうした部分は儒教の典憲と関わっている。
隠寂庵から水雲は『龍潭遺詞』と『東経大全』を記録として残し始めるが、『龍潭遺詞』と『東経大全』の随所には、水雲の記録作業が天師問答と同じく半夢半睡のうちになされたものであるとされる。そうであれば「東学歌詞に三つの気運が明らかにされた」という『典経』の一節のように158)、『龍潭遺詞』と『東経大全』もまた天命と神教の内容が多く含まれているという意味になる。東学思想の研究者たちは1860年から1864年までの東学を初期東学と称する。大巡思想において主張される東学思想と関連する大巡思想は、初期東学までである。
植民地国家の大部分の自生的思想が少数グループの思想にとどまるのに対し、東学思想は一般大衆の新宗教運動にまで展開される。東学の成立時期は、国際情勢に疎い民にとって危うい状況であり、東学は寄る辺なき民を集めうる重要な契機となった。
東学思想は、当時最も収奪が激しかった古阜において農民運動として発展する。当時、東学の接主は全国に分布しており、教祖伸寃運動が発生して東学の教勢が世に知られるようになると、弾圧の対象となると同時に活性化の契機ともなった。
東学思想の地観は、西学は「気化之神」なしに上帝を信じていると批判した水雲の言及のように、水雲の継続する修行の結果として体得される。超越天の立場から天地がすべて地に該当するように、人間の修行もまた造化、気化の領域となるため、東学思想の地観は水雲の継続する修行によって成立する。
与えられた地を地観とみなしてきた東洋の地観から、修行によって検証される地観への変化は、当時としては画期的な変化であった。王のみが地の気運を受け、地に祭祀を捧げることのできた儒教社会において、一般庶民が修練を通じて超越天と疎通しうるという地観は、聖と俗の境界が再編される自生的近代の端緒となる。
造化定地観のリミナリティ様相
西洋近代性の地観と東学思想の地観は、相反する様相として現れる。西洋近代性の地観は、超越天が動く天動説から内在天によって動く地動説から始まる。地動説では超越天の意志よりも内在天の作用が優先される。天が回るのではなく地が回るという地動説は、コペルニクス的転回と呼ばれ、既存の価値を悉く転倒する変化をもたらした159)。過去、神の摂理によって定められたと信じられてきた価値はすべて疑いを受けた。地動説は社会学的には働く人がより重要であるという意味において、近代性の理論的基盤となった。東学思想もまた、天主によって主宰される地は、過去の天尊地卑における付随的な自然ではなく、天主と同様に祀らねばならない生命の存在として現れる。
また、東学思想においては地が超越天の作用として解釈される。超越天が新たに強調される東学思想においては、従来の東洋思想における地の概念から、超越天の造化、気化、無為而化の作用全体へと拡大される。したがって従来の東洋思想の地観に比べ、東学思想の地観には生命思想が際立つ。これにより東学は生命思想と環境思想として後代に注目を浴びることとなった。
東学が生命思想として再照明されることに伴い、地に対する東学の強調も再照明される。今日の韓国の有機農法は東学思想の地中心思想に由来する。しかしながら、実際のところ東学思想において地に関する言及は強調されてはいない。ここで東学は初期東学までを言うため、初期東学のみを取り上げることとする。東学とみなすのは東学歌詞と水雲歌詞である。
天地もまた鬼神なり、鬼神もまた陰陽であることを、かくの如く知らずにいたのだから、賢人君子がどうして知ることができようか(『龍潭遺詞』、道徳歌)160)。
上の例文は、地に適用されれば、地が天と陰陽関係にまで高められるという意味である。『周易』の陰陽は鬼神という表現が強調されておらず、地の重要性を隠蔽してきた161)。実際、東学において水雲が最も先に布徳した対象は地を象徴する婦人であり、女性の権利を重んじることを東学修行の始まりとした。東学思想の上の例文は、これまで主に伝統思想の影響のもと、性理学の地観が表現されたものとして研究されてきた。東学が儒教の典憲を超えられなかったことはあるとしても、上の例文に現れる東学思想の地観は、「至気」と「無極大道」という概念を通じて類推してみれば、道教のごとき「地界」の概念が内包されている。
東学が霊符と呪文という道教の要素を共通に内包している点は多々強調されてきたが、東学に道教の地観もまた内包されているという点は強調されてこなかった。東学の地観概念は、神明を適用して地界にまで拡大されることはなかったが、地界を受容する道教の影響により、その可能性を内包していた。「天地が鬼神である」との上の表現は性理学にも現れる概念であるが、道教を受容している東学思想においては、性理学の概念を超えて道教の地界概念にまで拡大されると解釈しうる。
道教の地界概念は、陰陽概念の無限な拡張を内包している。陰陽概念の無限な拡張は多神体系を意味する。道教の地観は多神体系を内包している。しかし同じ多神教とはいえ、ヒンドゥー教の多神体系と道教の多神体系は、陰陽原理の無限な拡張という一貫性がある点でヒンドゥー教の多神体系とは区別される。ヒンドゥー教の多神体系もまた、インド・ヨーロッパ伝統の三機能体系の無限な拡張として解釈される余地はある。
したがって上の例文「天地もまた鬼神」という表現は、東学思想の地観もまた天観と同じく、道教の官僚体系が内在する神明界の理を有する、西学とは異なる地観を示す一節である。上の例文は、東学思想の地観が、精神が排除された唯物論的な西学の無味乾燥な地観とも異なり、理法体系に従ってのみ動く性理学的地観とも異なる、新たな地観であることを示している。
また上の例文に現れる東学思想の地観は、陰陽の無限な拡張という点で道教の地観と共通するが、道教の地観は天の上の天による原理を強調しない点で東学思想とは異なる。天の上の天を強調する東学思想の地観は、道教思想の地観に比べ、地観の可変性を強調している。道教思想の地観が乾坤の原理に基づく法則性を強調するならば、東学思想の地観は天の上の天による可変性が強調される。さらに東学思想は侍天主と至気という概念において、地もまた天主の原理に従う世界であるため、侍天主する人間に呼応しうる造化論的地観であることを示す。
地を天の上の天、すなわち上帝の命に従う総体的な神明の体系として規定した東学思想は、さらに地の中心と周辺を再設定する。東学思想は明堂の位置を韓国に比定することにより、地の中心が上帝の出現した韓国となりうることを示唆する。これは明堂として表現され、明堂は小中華と大中華の問題にまで拡大される。性理学においても明堂は中国であり、韓国は小中華であるという思想があったが、東学は韓国が明堂であることを強調する。東学の地観は、その内容が天観と同様に極めて革新的であったが、その価値は隠されており、その価値は大巡思想の地界観において明確に現れる。
東学思想の鬼神論的天地関係に現れたリミナリティ様相
天を奉るという発想を初めて提供した東学の天観は、東学思想において最も注目を浴びてきた。東学思想の天観の特徴に関する先行研究は、大きく形式的側面と内容的側面に分かれる。
形式的側面において、東学思想の天観は「天地が鬼神であり、鬼神が天地である」という伝統的陰陽論に立脚した天地観に代表される。東学思想にいう天地と鬼神の同一性は、儒教において語られてきた鬼神と天地の同一性と表現は同じであるが、天地という概念の天地が超越天であるか内在天であるかという点で大きな差異がある。東学思想において天の概念が天外天にまで拡大されるに伴い、従来の天地と鬼神の概念も新たに再配置される。超越天としての天地と鬼神の同一性を強調する表現は、東学思想において多様に現れる。
東学思想ではまず、従来は内在天としてのみ用いられていた鬼神という概念を、超越天に対して初めて適用する。
天地は知っても鬼神は知らぬ、鬼神とは即ち我なり162)。
(知天地而無知鬼神、鬼神者吾也)
上の例文において「鬼神とは即ち我なり」とは、陰陽の作用、すなわち天地の中の天としてのみ知られていた鬼神という用語が、実際には天の外の天、すなわち天外天の作用によるものであることを示している。東学思想において天外天としての鬼神は、人間の心に心霊を与え、人間が苦痛に満ちた天地から脱しうる存在であるという希望を与える。この天外天としての鬼神概念は、また天外天のみを知り内在天を知らない西学に対する批判としても用いられる。
「天上に上帝が玉京台にいらっしゃると、見るかのように語るが、陰陽の理致をさておき、虚無の説ではないか。漢の巫蠱の事が我が東方に伝わり来て、家ごとに祀るものが名称ごとに鬼神である。このような知覚を見てみよ。天地もまた鬼神なり、鬼神もまた陰陽であることを、かくの如く知らずにいたのだから、経典を察してなんになるか、道と徳を知らずにいたのだから、賢人君子がどうして知り得ようか。」163)
上の例文において「見るかのように語るが、陰陽の理致をさておき、虚無の説ではないか」とは、天外天は知っていても、天地に分かれた内在天に対する概念のない西学の天観は、実際の天の作用を体験する内在天の陰陽の理がなく、根拠のない希望事項を空虚に主張するものとなりうるという批判である。一方、東学思想は内在天を重視した東洋思想の基盤の上に、東洋に欠如していた天外天の天観を加えることで、経典の内容を貫きうる統合的観点を提示したと主張する。
ここでは西学を、理致よりも力を強調して世を惑わせ民を欺いた、漢代の巫蠱の禍に喩えて西学を譬える。巫蠱とは、呪術のために藁や木などで人体のように作った彫像をいう。巫蠱の禍とは、巫蠱を利用した漢の武帝の王子継承問題への介入によって多数の人々が死した事件をいう。結局のところ、内在天なしに超越天のみを強調する西学は、巫蠱と同じく虚しい結末を迎えるであろうという主旨である。
人の手足の動静、これもまた鬼神なり
善悪間の心用事、これもまた気運なり
話し笑うこと、これもまた造化なり164)
上の例文は、天外天としての鬼神が実体本位の日用事物にも作用する存在であることを示し、西洋の天観をも受容している。また、鬼神の次に連結された気運、造化は、結局のところ鬼神と造化、気運が同じ作用であることを示している。
侍天主と比較すると、東学の陰陽天地観は注目されてこなかった。東学思想の陰陽天地観は、儒教の典憲を踏襲しようとする東学思想の一部の傾向によって、儒教的鬼神観とみなされてきた。しかしながら東学思想が提示する陰陽天地観は、天外天の天地観であるという点で、儒教の天地・鬼神観とは異なる概念であった。しかし神明概念が不在の東学において、陰陽・天地観は十分に説明されず、神明概念を含む大巡思想において具体的に説明される。
天の上の天という超越天への天観の変化は、天人関係と地人関係をも変化させる。変化した天人関係と地人関係を通じて、自生的近代性は一層際立つ。西洋近代性の嚆矢として指摘されたカルヴァンの予定説は、天人関係の変化に代表される。予定説は司祭を通じた救済から努力による救済へという近代性の礎石を整えたと言われ、これをウェーバーは資本主義の起源となったプロテスタント精神と称した。東学思想が提示する天地・天人関係においては、過去の理気論において両班と賤民の差別が存していた気質之性が否定される。東学思想は東西の天地・天人関係の長所のみを取り入れようとする。
東学思想の天地関係は、鬼神論的天地関係として様々な箇所で表現されていた。天地鬼神の場合、天地鬼神は道教と西学が東学と差別化されるもう一つの要素となる。天地鬼神は道教と異なり東学思想において天主を意味し、西教と異なり内在的超越をも意味する。まず超越的存在を意味する場合をみれば、「鬼神者吾也」といい、「鬼神もまた他ならぬ天主」と鬼神を天主として明示する165)。しかしこの鬼神は、また様々な方法で内在的超越として描写される。「我(天主)の心は即ち汝の心(吾心即汝心)」、「天の心は即ち人の心(天心即人心)」166)「人の手と足が動くこと、それもまた鬼神なり」167)などとして描写される。
伝統的に東洋において、天は朱子(朱熹、1130-1200)が天と鬼神、上帝の原理的同一性を簡明に整理したとされる。「現れた姿を指して天と言い、主宰する側面を指して帝(上帝)と言い、作用する側面を指して鬼神と言う」168)。東学思想が出現する以前、性理学の理法天においても上帝観の端緒がみられたという169)。
東学思想に現れた鬼神としての天地は、伝統的な性理学に現れる朱子の鬼神とは異なり、陰陽という意味のほかに天主の意味が含まれていた。東学思想の鬼神には、人格神と理法神の意味が同時に現れる。
東学思想に現れた、天主という意味を含む鬼神としての天地概念は、天尊地卑の天地関係にリミナリティの反構造的属性を提供する。侍天主によって変化した天人関係と地人関係に続き、侍天主は天地関係をも造化によって変化させる。天地で代表される万物万事が至気へと統合される。
鬼神論的天地関係は、天道地徳という天尊地卑の天地関係を、陰陽五行の伝統的な平等な天地関係へと再活性化させる。これに水雲は最も先に布徳の対象として婦人を選び、性理学的な夫婦関係では見られなかった正陰正陽の夫婦関係を通じて、東学思想の調和された天地関係を実践する。東学の信徒は水雲の前例に従い、夫婦と父子など抑陰尊陽の陰陽関係で成り立っていた古来の人間関係を、正陰正陽の関係に転換することを第一の修行とした。
鬼神論的天地関係は、無為而化の実践として現れる。無為而化は陰陽五行に基づく無為自然と、地水火風の西洋造化概念とを同時に内包する新たな概念であった。無為而化は東学において内有神霊・外有気化という意味としても解釈されたが、これは侍天主に現れる造化概念を具体化して詳述した表現である。天尊地卑の関係からみれば、神霊と気化もまた尊卑関係にある。三界の上に超越する天主を侍天主することにより、尊卑関係が対等な陰陽関係に変わることを、内有神霊・外有気化の意味とみなしうる。無為而化はこれにより発展し、神霊と気化の内外関係として無為自然の造化が心の中で実践された状態を、東学思想において意味する。無為自然は陰陽五行思想においては陰陽五行の造化として解釈されたが、陰陽五行が相克化するに伴い、相克化された陰陽五行を変化させるリミナリティ概念を加えるために、無為而化は東学思想において強調された。
永世不忘人間観の自生的近代性
西洋の成長論的人間観
下から上へと世界を眺める西洋の天観・地観・人間観において、進化する天地のなかで人間は成長を志向する。実体性を志向する西洋の伝統において、人間はイデアの理想を地上の質料に実現するプロメテウスのごとく孤軍奮闘する人間から、原罪により天から失楽園し、地上から再び天へ昇るために救済に集中する人間であった。神が消えた近代においては、天地と分離された単独的存在として、西洋の人間は分化された世界において独り成功を追求する現象学的成長論、すなわち実存的人間となる。
天地との密接な関係のなかで天地の化育に同参せねばならぬという義務感に憂患意識が先立つ東洋の人間と異なり、西洋は天地と関連する憂患意識よりも、天の上の天と直接関わる実存意識が優先した。西洋の原罪思想もまた、東洋の性悪説と異なり、人間が自然に対して道具的に操作することを禁じはしなかった。
西洋の成長論的人間観は、神話学と心理学において研究が進められてきた。神話学において、西洋の成長論は英雄の循環のごとく個人の成長に集中して研究されてきた。キャンベルのような学者は、世界神話全体を英雄神話として解釈したりもする。東洋は西洋と異なり、同じ成長といっても胞胎養生浴帯冠旺衰病死葬という天地化育の天地之用、すなわち天地の成長を優先する170)。西洋心理学においては、これまで西洋の近代的人間観が精神分析や行動主義のごとく否定的人間観に偏ってきたとし、成長論的人間観をもってより成長を強調する。東洋の心理学者たちは、人間のすべての欲望を性的欲求の変換とみる精神分析や、物質的欲望とみる行動主義のような西洋の人間観は、東洋に比べて自己肯定的な人間観であると評価する171)。
西洋の人間観は、成長論的人間観とその反映である近年のポストヒューマニズム人間観に集中して表現される。成長論的人間観とは、人間欲望を否定的にみて技術志向的なアプローチをとった行動主義と精神分析学に対し、人間欲望を肯定的にみて内面の精神を中心にアプローチした実存主義的心理理論の人間観である。成長論的人間観によれば、人間の欲望は否定的なものではなく、人間には多様な欲求があるのみである。成長論的人間観は、人間の欲求が段階的に潜在しているということを前提とし、こうした欲求が下級のものから高級のものへと発展的に現れるという成長的側面を強調した人間観理論の総称である。成長論的人間観は、性悪説に基づく技術中心的問題解決を志向する古典的人間観に対し、性善説に基づく自己実現的問題解決を志向する人間観を提示した。こうした成長理論に含まれる人間観理論としては、1940年代半ばに登場し、後に成長理論の基盤をなしたマズロー(A.H. Maslow)の欲求段階説をはじめ、1960年代に提示されたマクレガー(D. McGregor)のX理論・Y理論、ハーズバーグ(F. Herzberg)の二要因理論、オールポート(G. W. Allport)の特性主義理論、アージリス(C. Argyris)の未成熟・成熟理論などを挙げることができる。
ポストヒューマニズムは第四次産業革命を基盤としており、第四次産業革命は成長論的人間観のいう自己実現段階の産業革命として解釈されもする172)。さらには実存主義がようやくポストヒューマン時代に成し遂げられ、韓国の新宗教が語ってきた未来展望と一致するともいわれる173)。
既存の性悪説的な心理学的人間観に対比して、成長論的人間観が提示した肯定的人間観は、マズローの場合、特に欲望、成長、世界に対する肯定としてそれぞれ現れる。第一に欲望の場合、マズローは下位の欲求がすべて充足された後に現れる自己実現欲求を、自己向上(self-enhancement)のための個人の渇望であり、潜在力として備えているすべてのものを実現しようとする欲望であるとして、欲望を肯定する。
第二に成長を肯定する。マズローは欲求位階において下位段階の四つの欲求、すなわち生理、安全、所属、尊敬などの「下位」欲求は、いずれも何らかの外的条件が欠乏して現れる「欠乏動機(deficiency motive)」であるとみた。こうした欠乏動機の作用は概ね「緊張低減モデル(tension-reduction model)」に従う。これに対し、最上位の自己実現欲求は自己の成長を図ろうとする「成長動機(growth motives)」である。これは「それ自体欠乏状態から生じるよりは、存在(being)自体から生じ、緊張低減よりも緊張増加を追求する。したがってこれを『存在動機(being motives)』というが、これは「個人の潜在力を実現しようとする先天的衝動と連関した遠隔の目標を追求し、経験を広げることで人生を豊かにし、それによって人生の喜びを増加させるという174)。
第三に世界に対する肯定である。マズローは当時のアメリカ心理学の第一勢力である精神分析が重視する人間の精神病理的側面や、第二勢力である行動主義心理学(behaviorism)が重視する機械的側面と還元論的・決定論的世界観を批判し、統一的存在(integrated being)である人間の主体性と全体性に基づく個人の潜在的可能性(human potentiality)を尊重しつつ自己実現を追求した。マズローは人間の人間らしい本性を追求し理解し、人間の成長と幸福に寄与する世界を志向する心理学理論として、当時の若者たちの偶像となった175)。
マズローが主張した人間の肯定的属性は、ポストヒューマンが代替しうる人間の属性とは極めて反対の属性であるという。ポストヒューマンが人間社会に極めて衝撃的な理由は、これまで機械が代替できない人間を代表する属性とみなされてきた理性、なかんずく道具的理性に該当する計算能力で機械が人間を凌駕したためであった176)。しかし人工知能を研究するほど、人間には人工知能と正反対の知能があり、人間が得意なものは人工知能が苦手で、人間が苦手なものは人工知能が得意であるというモラベックのパラドックスが現れた177)。このモラベックのパラドックスは、批判的ポストヒューマニズム論者であるJohn Searleの中国語の部屋論証を通じて、チューリングテストを通過し知能と判明された人工知能ですら、ポストヒューマンの有する知能を人間の知能とみなすことが難しいという限界を露呈した178)。
ポストヒューマン時代には、いまや人間は人間が機械より得意な知能に集中してこそ共進化が可能となり、そのなかで代表的なものが人間の成長知能として指摘されたのである。奇しくも東洋の神人関係もまた、有機体的な人間と機械論的な神明という特性をもっている。人間が成長知能を機械と異なって有することになったのは、人間は長い年月生存が目標であったため、人間の知能は特定部分に特化された弱い人工知能ではなく、すべての分野にわたって遅々としていても均等に発展した汎用人工知能の属性があったためである179)。象徴と共同体を形成し、自己発展を自ら成しうる成長知能が、人間だけの知能として注目を浴びたのである。実に人間は実存主義的存在努力を数万年間行ってきており、その過程で人工知能が真似できない数多くの象徴を通じて知能を開発し、自己実現の動機をもつに至った肯定的存在であった180)。人間はついに集団から個人へと自己実現をなすに至った181)。マズローの四段階成長過程は、大巡思想の冠旺と東学思想の胞胎と比較されうる。
西洋の成長論的人間観は近代科学技術の発展を牽引し、多様な社会的発展を成し遂げたが、天地を排除した独断的な人間の発展は、逆説的にも天地の背信によって人類を尽滅の境地に陥らせた。欲望の手綱は解かれたが、その手綱を再び結ぶ術のない西洋の人間観は、新たな代替的近代性を必要とするに至った。
東洋の接化的人間観
天の上の天を強調する西洋と異なり、東洋は天の中の天、すなわち内在天の天地と天地の間を連結する人間の役割を強調する。これにより東洋の人間観は相関的思惟が際立つ接化的特性をもつ。東洋の人間観を理解可能にする相関的思惟については、金相日以後、沈光鉉らによって現代哲学的な後続研究がなされた。東洋の接化的人間観は、相関的思惟の属性上、韓中日のなかで韓国の美学的特徴において際立って現れる182)。
沈光鉉は韓国文化の特徴をフラクタルとして定義し、西洋のポストモダニズムと詳細に比較したうえで韓国文化全般に適用した。沈光鉉は今日、同一な構造が反復されるという東洋の科学がフラクタル構造として一言で表現されているといい183)、韓流が世界人の支持を得ているのも、すべての文化が陰陽五行に基づく世界において最もフラクタル的な特性があるためであるともいう184)。フラクタル的特性に東洋の接化的人間観がよく現れている。
フラクタル理論とは、部分を意味するフラクタル(fractal)において、全体の構造が部分の構造に現れるという意味で、宇宙がコンピューターのようにいかに複雑であろうとも、陰陽のような0と1の反復であるように、同一構造の反復であるという理論である。天の陰陽五行構造が地にもあり、人間にも同様にあって、人間の陰陽五行構造を知れば地も知り、天の原理も知ることができるという東洋の陰陽五行は、典型的なフラクタル理論である。これを東洋では理致と表現してきており、人間は天と地の理致を同時にもっているため、人間は天地の化育に同参することができ、また同参せねばならない存在であるというのが、東洋の接化的人間観である。
東洋の接化的人間観が人間の能力を高く評価する点は西洋の成長論的人間観と共通するが、異なるのは、東洋では天地が人間の能力を実現すべき対象ではなく、逆に人間の能力は天地の贈り物であり、人間は天地に恩恵を返さなければならない存在であるという点である。東洋の天地は質料と形相ではなく、万物を化育する動化と応縮であったため、東洋の知識人は天地の化育の努力に合致できず同参できないという憂患意識が、個人の成長という実存意識よりも優先した。
西洋の近代化に伴い、東洋の接化的人間観は東洋の知識人にすら前近代的な啓蒙対象として扱われたが、東西の交流に伴い、今日は多様に再評価されている。まず東洋の相関的思惟を西洋の認知心理学の次元にまで拡大した研究者は崔仁哲である。崔仁哲はニスベットとの共同研究によって、東洋思惟の相関的認識を認知心理学的に証明し、この分野の学問を樹立した。彼らによって東洋と西洋が集団性と個人性として代表されることが、今日心理学的実験によっても立証された185)。
崔仁哲の研究を東洋心理学にまで実際に拡大した人物は趙肯鎬である。趙肯鎬は、全体から部分を把握する東洋の認知体系が人間の心理的倫理観にも影響を及ぼし、東洋、特に儒教においては西洋とは異なる儒学心理学の体系を作り出したことを示した186)。実際、東洋においては専門性よりも全人的中庸が強調されてきた187)。
相関的思惟を言語教育学的に拡大した研究者は趙玉九である。趙玉九は「ハヌルチョン・タジ(天地)」から学ぶ東洋伝統の千字文教育と、「ヨンヒよチョルスよ」から学ぶ西洋式現代教育を、東西の認知体系の差異として説明し、東洋の相関的思惟が近代文明の代替的科学となりうることを提示した188)。
李御寧ら既存の元老学者たちも加勢して、東学の相関的思惟をもって西洋の分析的思惟に対抗する理論を提示したが、これらの理論を総合して相関的思惟体系を総合的に説明した人物は朴在柱である。朴在柱はホワイトヘッドの思想を中心に総合的に整理したことがある189)。
上から下へと思惟する東洋の生成論的思惟によれば、相関的思惟において宇宙における人間の地位は、天地の属性をすべてもつ存在として天地と接化する存在となる。したがって天地は天地の仲介のために人間を必要とし、天地のなかで最も秀でた気を人間に付与する。
陰陽五行の気が天地のなかに流れ込んで、秀でたものが人となり、滓は物となる。秀でたもののなかでも秀でたものは聖人となり賢人となり、秀でたもののなかでも滓は愚かな人となり不肖なる人となる190)
天地の気運が接化して生まれた人間は、天地とともに天地が万物を化育するのに同参することが人間の義務となる。天地は誠敬信をもって人間を化育し、人間は誠敬信をもってこれに報いる存在となる191)。
ただ天下において至誠を行う者のみが、よく自らの性を尽くすことができ、自らの性を尽くすことができれば、よく他人の性を尽くすことができる。他人の性を尽くすことができれば、よく事物の性を尽くすことができ、事物の性を尽くせば、天地の化育を助けることができよう。天地の化育を助けるに至れば、天地とともに(天地の化育に)参与するに至るのである192)。
上の例文において接化的人間とは、天地の気運をそれぞれ受けた存在であり、これを性といい、この性を性として尽くして天地に返す存在として現れる。相関的思惟をもって東洋思想を翻訳してきたエイムスとホールは『中庸』を『日常事に焦点を合わせる』と訳し、天地の誠とは西洋の実体的世界観において解釈する場合、脱近代性の哲学者ホワイトヘッドが彼の過程思想で言う創造性(Creativity)として解釈されねばならないという。ホワイトヘッドもまたこれに関して言及したことがあるという。
あらゆる哲学理論において、偶然性のおかげで実際的な究極者が存在する。[…]有機体の哲学において、この究極は『創造性』と呼ばれる。[…]一元論の哲学において[…]この究極者は神であり、『絶対者』という名で呼ばれることもある。こうした一元論の哲学構図において究極者には、いかなる偶然性をも超越する最終的な『卓越した実在性』が不当に許容されている。このような観点から、有機体の哲学は、西アジアやヨーロッパの思想よりは、インド、中国哲学学派とはるかに近いように見える193)。
誠を創造性として解釈する場合、天地が人間を生人することも創造性であり、人間が返すこともまた創造性となる。接化には創造性の概念が核心となる。東洋の接化的人間観は自然との調和を追求し、無理な発展を追求はしなかったが、相関的思惟に固着して相関的思惟以前の思惟、すなわち天の上の天を忘却し、新たなものを拒否する固着状態に進入してしまい、マテオ・リッチのような西洋の批判に適切に対応できなかった。これにより、西洋の衝撃があってから初めて、東洋は自生的近代性を模索することになった。
李英蘭のリミナリティ理論の立場からみるならば、天(1)、地(2、1+2)に続いて人間(3、1+2、1+2+3)は再び人間を超えた第三の存在(1+2+3=1′)へと変化しうる存在であり、この変化可能性のリミナリティ様相が人間の接化的特性となる。人間は天地が付与した陰陽、すなわち魂と魄をもっており、自ら変化することができるため、宇宙が繰り広げる天地化育の公演を識ることのできる知人となりうる。さらに人間は直接宇宙において公演を行う存在にまで至らねばならない。西洋の衝撃による自生的近代性の人間観において、リミナリティは理想的人間観の実現を準備することとなる。
近代東西人間観の衝突と相克化
人間観の衝突
東西の人間観は、東西が交流する以前にすでに多くの問題を内包していた。東西の人間観が独自に発展するなかで、各々の人間観の短所もまた際立つ。まず地水火風の場合、第五元素が唯一神化されることによって、まず西洋において地水火風の神明体系が消滅する194)。弱体化した地水火風の天観・地観・人間観において、地水火風の神明は薄遇され追放され、唯一神と人間との契約関係として天人関係が私有化される。人間は唯一神の前で罪人へと転落し、悔い改めて救済を受けねばならない存在となり、死してのみ極楽へ行きうる地位となる。東洋もまた相関的思惟が固化するなかで、両班と賤民の差別が深まった。これは東西の交流によって変化の契機を迎えた。
悪貨が良貨を駆逐するという経済学の法則のように、東西が交流するに伴い、東西は互いに長所も交流されたが、人間観においては短所がより際立つ。東西が交流するなかで、西洋の超越志向的人間観が先に内在志向的人間観へと変わる。超越的神なくとも倫理的な人間社会が可能であるということを、マテオ・リッチから知ることになった西洋は、もはや神の救済を望まず、神の座は物質によって代替されることとなる。
東西の人間観の衝突は、東洋思想によって近代性を成し遂げた西洋が、富国強兵策で国力を養った後に発生した帝国主義期から発生する。東西が衝突するなかで、当初第五元素として地水火風の仲介者であった地水火風の天は、内在神としての属性が消え、超越神として現れる。超越的な唯一神に対し、地は人間が享受しうる支配・征服の対象として提供され、東洋もまたこれに該当する。
東西の天観・地観・人間観は表面上の差異点とは異なり、古代へ遡れば共通の起源をもつこともある。大巡思想にも現れる三十六天の場合、道教の三十六天天観にも現れるが、これは仏教以前の東西共通の天観・地観・人間観の起源と関連している。道教の霊宝経経典に現れる道教の三十六天天観は、『阿毘達磨倶舎論』に現れる仏教の二十八天天観に関連するという。仏教の天観である二十八天は欲界、色界、無色界という垂直的に区分され、道教の三十六天は東西南北四方の水平的区分の意味としても区分されるというが、仏教の二十八天もまた道教と同じく天文二十八宿と関係するという195)。仏教の二十八天が最初に現れる『阿毘達磨倶舎論』は仏教の教えとみなされる小乗経典であるが、仏教の二十八天理論は仏教成立以前のインド・ヨーロッパの三機能体系(trifunctionalism)の遺産とみなされ、これはさらに遡って東西共通の天文思想に由来するという196)。
三機能体系とは、共通の言語を駆使する古代インドとヨーロッパにわたる広大な地域の神話と社会組織すべてにおいて、天地人と同様に、天のごとき宗教階級―ブラフマン(Brahman)、人間のごとき戦士階級―クシャトリア(Kshatriya、刹利種)、地のごとき生産階級であるヴァイシャ(Vaishya)―シュードラ(Shudras)系列の体系が現れるとする理論である。実際に三機能体系理論を初めて発見したデュメジルは50以上の言語で古代文化を調査し、ギリシャ・ローマ神話に現れるトロイア戦争やヒンドゥー神話にも三機能体系が共通して現れるという。実際、ギリシャ神話トロイア戦争の場合、生産と美を象徴するアフロディテ、宗教を象徴するヘラ、政治を象徴するアテナの間の戦争であったという197)。インドの場合も仏教にも現れる弥勒系列のミトラはヴァルナとともに宗教を司り、金剛山系列に現れる雷の神ヴァジラはインドラとともに政治を司る198)。仏教固有の教えという『阿毘達磨倶舎論』に仏教以前の教えが含まれる所以は、小乗仏教と相反する大乗仏教の教理が仏教に受容される過程と関連するという。科学的仏教経典解釈者として著名な佐々木閑によれば、アショーカ王碑文に現れたように二度にわたる仏教の結集を通じて、仏教的なものとして受容しうる範囲を大きく拡大したという199)。したがって大巡思想にも現れる仏教天界観の主要な役割を果たす金剛山もまた、インド古代神話の雷の神ヴァジラ(Vajra)と三機能体系を成す構造となっている。
仏教の三機能体系が時間的な垂直の性格をもつとすれば、古代東西の交流によって変化した中国の天観・地観・人間観の場合は、天地人という空間的配置をもって三才観がより際立って現れる。道教三十六天天界観は、仏教二十八天天界観を内面に含んでいる200)。空間的配置が強調される東アジアの天観・地観・人間観の場合、三才循環の動力もまた、個人業報の輪廻よりは祖先と子孫の勝負として現れる。したがって東アジアにおいて天観・地観・人間観は、神話的には代表的な文明族である共工族が地下文明神として現れ、その遺物として地下神が現れる201)。
西学であるカトリックも、天観・地観・人間観においてヨーロッパ・インドの三機能体系が反映されている。一般にアブラハム系列宗教の起源となったとされるゾロアスター教もまた、弥勒の起源となるミトラ神を起源とする三機能体系に基づいて、死後の天界と冥府を強調している202)。
三機能体系で代表される西洋の天観・地観・人間観と、天地人で代表される東洋の三才観は共通点をもつが、両天観・地観・人間観は時間と空間の強調点の差異のほかに、三界の創造主を三界と区分する方法においても差異を示す。西洋の天観・地観・人間観は東洋の三才観に比べ、創造主が持続的に干渉し、ひいては西学においては天界・地界・人間界の神がすべて消え、唯一神体系となる。一方、東洋の三才観において創造主は隠れたる神(Deus absconditus)として現れる。東学思想と大巡思想に現れる上帝は、東洋の隠れたる神と西洋の唯一神の属性が同時に現れるため203)、西学と道教にとっては類似する部分として映ることとなる。
天人・地人関係の相克化
天人(天人)・地人(地人)関係の相克化
東西洋が個別に発展する過程において、陰陽五行と地水火風の天観・地観・人間観はそれぞれ異なる方向へと相克化されつつも、両思想体系は精緻化されていく。陰陽五行の世界観における天人関係は、『詩経』『書経』の人格的天人関係から204)、湯王・桀王に見られる善悪分別の理法的天人関係へと転換し、戦国時代には陰陽・三才・五行思想が理論的に結合され205)、その後の仏教の導入とともに理法(理法)が実体化された天界・地界・人界の三界が道教において完成される。206)『玉枢宝経』において完成される超越論的神明体系もまた弱化し、人間と神との内在的な陰陽関係は退色していくのである。
東西洋の天観・地観・人間観が衝突する以前、マテオ・リッチ以前の西洋の神人関係を考察するならば、西洋の神人関係は、森羅万象の一切を主宰する全知全能の唯一神たる絶対神があり、その下に唯一神の業を特別な場合にのみ遂行する天使が存在し、天国と地獄に人間の霊魂があるという構造であった。207)西洋では自然を運行する天地神明が忘却されたのに対し、東洋では忘れられた神明の存在が記憶されているという長所があった。西洋の唯一神は遊牧文化と小麦栽培の影響により、東洋の上帝のように法則に従って主宰するのではなく、特定の法則なく任意に一切をなしうる存在であり、天使もまた東洋の神明と異なり、特定領域固有の業務を担う存在ではなかった。したがって人間および天使にとって最大の罪は、東洋のように自己固有領域の任務を遂行しないことではなく、任意に変わる唯一神の命令への不服従であった。西洋において唯一神の権威は抑圧的ではあったが確固たるものであった。
超越神を前提とする西洋の伝統的な天人関係は、キリスト教に代表される西洋思想によって提示される。アリストテレスの用語をもって自らを表現したキリスト教は、超越者のモデルもまたアリストテレスの第五元素モデルによって提示する。アリストテレスの神は、地水火風宇宙論の第五元素のごとく、地水火風の循環を超越した位置から観望する存在である。208)
当初、第五元素として地水火風の仲介者であった地水火風の第五元素たる天は、内在神としての属性を失い、超越神として現れる。西洋の場合、近代に至るにつれ地水火風の宇宙観は実体という性格のみを残し、地水火風の相関性は排除されていく。これに伴い、唯一神化された天尊に従って人類の傲慢もまた倍加されていった。
天人関係のみならず地人関係もまた相克化される。西洋において土地は質料であり支配の対象であったが、東西洋の交流以降は、いまや内在的な科学技術によって操作される操作対象へと転落する。東洋の場合、土地は天地関係において役割が固着化され、天の指示にただ従うのみの存在へと転落する。
天人関係は東西洋を問わず、当初は相生的関係であった。西洋の場合、人間世界はイデアが投影された場であり、神は自らの形に倣って人間を創造する。東洋の場合、人間界は神明界においてより高き場所へ赴くために修練を行う場所であった。しかしながら天人関係・地人関係が相克化されることにより、もはや人間界を通じた天上界の発展は停止し、天地の化育もまた中断されてしまう。さらには宇宙全体において混乱が加速し、尽滅の境地へと突入していく。そこで聖俗の再配置、すなわち近代性のリミナリティの様相が天人・地人関係において要請されるのである。
東学思想の永世不忘(永世不忘)人間観に現れたリミナリティ
東学思想の永世不忘(永世不忘)人間観
超越天の介入による天観の変化は、地観の変化とともに人間観の変化をも招来する。超越天によって地の概念が造化と気化の概念へと変わり、地の地位が上昇して天と地の地位が同一となるごとく、人間もまた超越天と「吾心即汝心」、すなわち同じ心を通わせうる存在へと格上げされ、天地と同等の存在へと地位が引き上げられるのである。
東学思想の人間観もまた地観と同様、東学思想が展開されるにつれて徐々に顕現していく。東学思想が展開されるほどに、それに対する水雲の態度は変容していく。天師問答および布徳活動、殉道(殉道)209)、さらに殉道以降においても変化し続ける。東学思想の人間観は水雲の殉道を前後して、とりわけ変容するのである。
東学の教祖たる崔水雲が自殺にも近い慶州への回帰を敢行した後、予想通り刑場の露と消えたが、彼が蒔いた火種は千辛万苦の末に崔時亨の努力によって再び蘇り始める。崔時亨は水雲が苦心して残しながらもすべて散逸してしまった『龍潭遺詞』および『東経大全』を記憶から呼び起こし、同志たちの援助を得て復元した。崔時亨が復元した『龍潭遺詞』『東経大全』は全国に配布され、東学は東学農民運動の形をとって蘇生していく。甑山はこれを蚩尤(蚩尤)になぞらえ、東学の作乱が始まったとしている。210)
東学農民革命運動は、韓国農民革命史上類を見ない大運動となり成功するかに見えたが、日本の介入を招くこととなり、かえって最大の悲劇的運動と化した。しかしながら東学に現れた上帝の意は広く弘布され、希望を残したのである。211)生き残った東学信徒は新宗教や東学の変身たる諸運動に再び参与することとなる。
東学は新宗教のうち最も早期に出現した新宗教といえる。東学が新宗教に及ぼした影響は、一部新宗教の研究を基礎とすれば統一教にまで及ぶ。212)円仏教および統一教にも東学関連の言及が現れるためである。東学は1980年代以降、新宗教の復興期において最も多くの知識人が研究した分野でもある。一方、新宗教の主張は東学の主張とは相反する。東学以降の新宗教においては、東学は一般に、東学以降の新宗教が出現するための前奏曲であったと主張される。東学と東学以降の新宗教の主張は、相互の共通する教理体系を検討することによって理解しうる。東学の教理体系のうち、とりわけ東学以降の新宗教と共通して有する教理体系は相関的思惟の循環性である。
東学以降の新宗教に東学の影響が議論となるならば、東学にあっては既存宗教の影響が問題となる。東学の教理体系と既存宗教との関係は、東学研究者の主要研究課題の一つである。しかし東学と儒教・道教・キリスト教との親和性問題は多く研究されてきたものの、東学教理体系の循環的属性という相関的思惟の側面においては、いまだ十分には研究されていない。
東学は仙道のごとく形式的には符を用い呪文を唱えるものの、内部的には輔国安民・忠孝烈・誠敬信など性理学の体系を有している。また西教と同じく天主という用語を共有している。大巡真理会の東学に対する評価のように、東学は仙道を主張したものの、儒教の典憲ゆえに失敗したものと要約される。213)
1980年代以降、東学学会を中心に再評価されつつある東学の循環的教理体系は、東学のみならずほとんどの新宗教が共有している三太極体系である214)。東学は教団期において相関的思惟の循環を核心教理としているのに対し、東学の教理体系に現れた固有の天観・地観・人間観についてはあまり研究されていない。
東学においてこれまで高く評価されてきた相関的思惟の循環性は、教理体系の内部的評価よりはむしろ、外部的循環としての東学農民運動の平等主義という側面であった。215)東学は、東学以降の新宗教に現れた循環が東学の影響であると主張するが、東学と共通して現れる三太極伝統を共有するため、東学以降に極めて多様に現れる相関的思惟を東学の影響と見なすことは困難である。
『東経大全』の最末尾に現れる不然其然(不然其然)は、『東経大全』全体の文脈から見れば、人間の地位変化および東学の神存在証明に該当する内容であるとされる。『東経大全』は崔水雲の思想よりも、崔水雲に啓示を下した上帝の思想を強調することを主とする。実際、海月が水雲との対話を記した『道源記書』においては、水雲は上帝から持続的に教えを受けてきており、上帝の教えが途絶えて以降、自らの死を予感して極めて不安に陥っているのである。
崔水雲以降の東学もまた、崔水雲の東学とは不連続性を示す。『東経大全』あるいは『龍潭遺詞』の内部においてもまた、前期と後期を異なって評価することがある。東学の内部においても不連続性を示すほどであるから、東学と他の新宗教とは極めて隔たりがあることがわかる。
李康五の新興宗教資料は主に教団の離合集散に集中しており、教理体系の差異よりも教理体系の共通性に注目している。東学が東学以降の新宗教を東学の影響と見なすのは、東学以降の新宗教を信仰した人物が主に東学党員であったためである。東学党員は東学の失敗以降、南方仏教・円仏教などにおいて活動している。
東学以降の新宗教が東学の影響であるとする東学の主張に対する東学教理的根拠は、東学もまた儒仏仙三教を総合したというものである。しかし東学には仏教の影響がほとんどなく、呪文と符を唱えるとはいえ、また先霊神を含む神明世界を強調しないという点において、いまだ儒教の枠を大きく超えていない点が多い。216)
東学が相関的思惟の循環を強調したのは、むしろ東学以降の新宗教が出現することを受けて、東学が理論体系を再整備した1919年三・一運動以降であるといえる。教理体系を欠く宗教に対する日本の弾圧政策により、東学は李敦化を中心として教理体系の確立に乗り出した。217)
永世不忘(永世不忘)人間観のリミナリティ様相
超越天によって地位が格上げされた東学人間観の様相は、前期と後期とを通じて異なって現れる。初期の天師問答において侍天主を通じて上帝を奉ずる地位にまで人間の地位が格上げされるのは、水雲の刻苦勉励の努力によるものであった。
東学農民運動に参与した人々が表向きには輔国安民を主張していたものの、内心では王侯将相を懐いていたという『典経』の言及のように、人は誰しも困難な状況下では物質に偏りやすいものであるが、水雲はイエスのごとく天の提案をも拒絶する。四十余年にわたる万古風霜を経た水雲にとり、物質の誘惑は呂洞賓のごとく通用しないものであった。続く試練と水雲の断食闘争の末、上帝は水雲に対して「吾心即汝心」という人間の地位上昇を明らかにする。
しかしながら結局、後期に至っても水雲はその「吾心即汝心」の趣旨を十分には理解しえなかった。侍天主を通じて上帝を奉ずる地位にまで人間の地位が格上げされたにもかかわらず、水雲はその趣旨を、儒教の典憲を超ええなかったがゆえに十分には理解しえなかったのである。水雲は不然(不然)と其然(其然)を通じて人間の問題を解決する。「理解しがたきものは不然であり、理解しやすきものは其然である。」人間の理性によって理解可能かつ経験しうる世界が其然であるとすれば、不然は人間の理性をもってしては理解不可能かつ経験不可能な世界である。とすれば不然は理(理)・道(道)・一心(一心)・天(天)と通じる。しかしここで重要なのは、不然と其然が二分法的対立項ではないということである。経験を通じて経験を超えた真理を悟り、我々の前の事物において悟りを得るごとく、経験を通じて究極的実体に到達しうる218)という程度に「吾心即汝心」は理解されることとなる。不然其然は東学思想の研究者にとっては卓越した認識論として理解されもするが、大巡思想の道通真境と比較するならば、いささか距離のある理解であった。
東学思想の永世不忘的人間観は、西学とおおきく二点において相違していた。まず代表的には司祭と信徒の差別撤廃である。東学思想は西学における司祭と信徒の厳密な区分を批判する。東学思想は、西学が儒仏仙に比して人間を平等に見たという点は高く評価するが、司祭と信徒間の階級的差異については大きく批判する。東学思想の永世不忘的人間観が人間観の宗教思想史的側面において際立つ点は、「侍天主」の範囲において司祭と信徒の区分を設けなかったことである。これにより東学思想においては、今日の咸錫憲らの無教会主義のごとく信徒と司祭の区分が消失する。これが東学人間観の特徴である接主制(接主制)の意義となる。西洋の宗教改革が神父の特権を廃棄したとすれば、東学思想は牧師の特権までをも廃棄するのである。
西学と区別される永世不忘的人間観の第二の特徴は「各自為心(各自為心)」と「各知不移(各知不移)」の差異である。西学において天主は外部にあるという表層宗教的特徴がまず強調されたとすれば、東学思想の侍天主は天主が内部にあるという深層宗教の特性が強く現れる。したがって修行の方法もまた、西学の場合はウェーバーが指摘したように、カルヴァン主義のごとく救済の証明が世俗的成功であるという「各自為心」として信仰の形態が現れる。これは西洋近代性の基盤となった。しかしながら東学思想においては、救済の証明が内部にあるため、内部の省察的倫理を自ら実行する道徳的修行、すなわち「各知不移」に存することとなる。
西学と対比される東学人間観の特性が、司祭と信徒の差別撤廃、世俗的成功よりも省察的倫理の強調として現れるとすれば、儒仏仙と対比される東学人間観の特性は、小宇宙的人間の強調として現れる。後期東学においてはこれを「人乃天」という用語にまで拡大するが、初期東学において人間観はあくまで天地内の人間である。ただし侍天主を通じて人間は「内有神霊外有気化」という修行を通じて、天主の無為而化に従う天地化育に参与しうる存在となるのである。
「内有神霊外有気化」の範囲を人乃天にまで拡大しうるか否かの差異により、東学思想と大巡思想の人間観は相違が生じた。219)その後の展開過程において天道教へと発展した東学思想は、「内有神霊外有気化」の範囲を人乃天にまで拡大する。これにより、人間を天地化育に参与する存在としてのみ規定する大巡思想を前近代的思想として批判することもある。初期東学思想の人間観は、実際には大巡思想においてより具体的に展開される。
東学思想の人間観は、東学思想の侍天主的人間が共に集って現れる地上天国という用語へと拡張される。後期東学において地上神仙は、初期東学に現れる人界と地界の交流による結果ではなく、侍天主を悟った者という意味で理解されるようになる。地上神仙が集まって築き上げる地上天国という用語もまた、初期東学においては天と地の相互交流に伴う天と地の位相変化、すなわち天尊地卑から天尊地尊の関係への変化に伴う地上の地位上昇を含意するものであったが、後期東学では侍天主的人間が集まって築き上げる自生的近代の世界として描かれる。初期東学の地上天国概念はむしろ大巡思想において再解釈される。
東洋の内在天において再活性化された東学思想の超越天は、無為而化という地観のみならず、人間観にも大きな変化をもたらした。東学思想の人間は超越天と直接疎通する人間へと格上げされる。これにより聖俗関係は再編され、一般民衆はこれを自らが王侯将相に至りうる地位上昇と解釈することもあった。地上天国・地上神仙という表現に現れるごとく、東学の当初の趣旨は儒教の典憲を超えることであったが、その趣旨は十分に実現されることがなかった。東学思想の人間観は聖俗の関係を再配置し、一般民衆が近代性のリミナリティに参与しうる動機を付与することにより、自生的近代性の契機を整えたのである。
東学思想の内有神霊(內有神靈)天人(天人)関係に現れたリミナリティ様相
東学思想の核心的特徴を侍天主と開闢として捉える研究は多く存在するが、両概念を結びつける「造化」についての研究は稀である。侍天主の結果としての造化は、東学思想において気化・至気として多様に解釈されてきた。至気という概念が新たな概念であるとしても、「気」という概念の外延に存するとするならば、東学思想が既存の西学や性理学と区分される最も特徴的な概念は「造化」であり、この造化が人間の内面に適用されたものが内有神霊であり、個別の日用事物の外部に適用されたものが気化であるといいうる。この造化を天人関係から見れば神霊として現れ、地人関係から見れば気化として無為而化と造化として現れる。
天上の天を強調する東学思想において、地観もまた上帝の気化作用によって変貌するため、したがって天と人間の関係は内有神霊(內有神靈)の関係へと変貌する。
侍天主の「造化」は内有神霊(內有神靈)として現れ、西学の唯一神的天人関係における神尊人卑をも克服する。厳格に区分された西学の唯一神とは異なり、侍天主の上帝は「吾心即汝心」のごとく、廃棄されていた天人合一の境地を復活させる。東学思想は天上の天が介入したものの、西教とは異なり天内の天たる天地概念をも包含していたため、一般信徒もまた天上の天と心によってつながりうるものとなった。これにより東学思想は天上の天と通じながらも、西教と異なり司祭と信徒間の階層を伴わない天人関係となり、すなわち社会と個人の関係もまた変化することとなる。
東学思想においては、性理学のように両班と常人とが天から賦与される気の差別もなく、西教のように司祭と信徒の差異もなく、信徒もまた天上の天と同じ心を持ちうる存在として人間の地位が格上げされる。これにより聖と俗の境界が再配置される自生的近代性のリミナリティ様相が、東学思想の天人関係および地人関係において実現されるのである。
東学思想の外有気化(外有氣化)地人(地人)関係に現れたリミナリティ様相
「造化」という概念は、東学思想の当時においても自然の主要特性ではあったが、性理学は範節という人間社会の特性を主に強調しており、造化の自然に現れる特性を強調することはなかった。人間社会の節度ある変化たる範節に比して、自然の造化は新たな生命を誕生させる創造性と関連する概念であり、東学当時の朝鮮社会は範節は溢れていたものの、造化と創意性を活かしうる文化が儒教によって抑圧されていた。
創造と進化を意味する造化を抑圧していたのは、性理学のみならず当時の伝統的な朝鮮民衆の眼には西学もまた同様であった。祭祀を迷信化し、司祭と信徒の階層秩序が厳格な西学の唯一神による抑圧は、性理学を凌駕する権威主義として迫ってきた。これにより社会は新たな反構造を必要とする状況に直面し220)、これを調和させうる新たな思想を必要としていた。
造化とは常に相反する矛盾の問題を解決する過程であった。陰陽の調和・新旧の調和のごとく、造化は常に相反する要素を前提とする。宗教人類学において造化に最も近い概念はリミナリティ(Liminality)概念を挙げることができる。敷居・境界という意のリメン(Limen)という単語に由来するリミナリティは、人類学者ファン・ジェネップが研究したほとんどの通過儀礼に共通して現れる、相反する要素の境界地点を意味する用語であった。例えば結婚式のような通過儀礼は、結婚以前と結婚以後の間に、反構造的な逸脱の期間たる新婚旅行や東床礼のような儀礼を伴う。実際、日常の通過儀礼が常に生じる門には、西洋では二つの顔を持つヤヌスが、東洋では太極があった。太極とヤヌスは境界地点における逸脱の許容、すなわち調和を意味するものであった。
侍天主が造化、すなわちリミナリティを意味することとなったのは、当時相克が極大化された神尊人卑の天人関係に起因するところが大きい。当時、常民は性理学の立場からは濁気に満ちた存在であり、西学の立場からは罪人であったが、侍天主によって上帝を奉じうるリミナリティが提供された。
侍天主から始まった天人関係の変化、すなわちリミナリティの天人関係は、東学を中心として社会全般へと拡大する。これにより土地と人間の関係、すなわち土地に基盤を置く社会と人間の関係が変化する。東学は早くから「信ずる」とは称さず「行う」という言葉で呼ばれたとされ、リミナリティによって招来される反構造的社会、すなわちコミュニタスの反構造的行為の実践として現れる。朝鮮時代に性理学を経てほとんど尊重されることのなかった創造性と「造化」が尊重されるや、朝鮮時代に最も抑圧されていた女性と児童の処遇からして開闢されていく。
東学思想に現れた超越的な天の介入による天観の変化が招来した土地と人間の地位上昇は、伝統的な地人関係に反構造的性格のリミナリティ様相をもたらした。性理学において天地の清き気を賦与された両班が聖(聖)の領域を担っていたとすれば、濁った気を賦与された民衆は俗(俗)の領域に位置づけられていたが、人間の地位格上げによって変化が生じた。いまや民衆もまた王侯将相となりうる宗教的正当性を確保したことにより、自生的な聖俗の再配置が発生することとなる。
地人関係を詳しく考察するならば、魂の性質に倣って自由に動きうる天に比べ、魄の性質に倣って形体を持ち性質が重い土地の属性は、抑陰尊陽・陽尊陰卑のごとく、東洋においても土地は人間にとって束縛として迫ってくる存在であった。天文地理という言葉のように、東洋において土地は自然科学の理法のごとく、人間に物質的法則として日常を制限する存在であった。西洋ではもちろん、エデンの園から人間が追放された場所は土地であり、仏教においても土地は苦痛の温床であった。
東学思想が強調した造化は、伝統的な土地と人間の関係にも変化をもたらした。東学思想の侍天主が天を奉ずることによって新しい天を開き、再び開闢を通じて東学思想は新たな地人関係を作り上げた。
東学思想は過去に禁じられていた土地の役割変化を侍天主の造化を通じて図る。東学思想における地人関係は下元甲を過ぎた好時節221)が循環する。地人関係は人傑が地霊で代表され、名賢達士が東学信者として入教することとなる。222)
東学思想において土地は再開闢によって地上天国となり、地上神仙となりうる場となる。土地の理が異なる東方の学問、すなわち東学を通じて開闢された土地において、東学思想は西学を克服する力もまた獲得する。東学は西洋に敗れた中国に代わって西洋を克服する力を韓国に賦与し、新たな国家もまた誕生せしめる。東学思想に現れた東方の力は、中国を侵犯した妖しき西洋賊を大報壇の誓いをもって223)打ち克たせるのである。
天人・地人関係の変化は、社会における人間の地位への認識にも変化をもたらす。全琫準の文招にも見られるように、東学農民運動の契機は「全国両班となること」の企図と一致する。224)これは『典経』に次のように現れる。
全明淑が挙事するにあたり、常人を両班とし、賤人(賎人)を貴く成し遂げようとする心を抱いていたがゆえに、死してのちよく成って朝鮮冥府となった。225)
東学思想はさらに、東学農民運動参加者たちが胸中に登用を夢見させもする平等思想を有し、全市民が官僚となることを図る。しかしいまだ参加者たちの王侯将相とならんとする欲望が内在しており、地上天国を実現するには東学思想は完成を得ることのできない欲速不達の状態にあった。当時、外国人の眼に映った韓国人の姿は、労働意欲の喪失であったという。収穫しても奪われる状況下において、王侯将相となる道が最も現実的であった。実際、『典経』には多くの東学参加者が実際に参加した理由として、王侯将相を図ることが挙げられている。
上帝、十二月に入って諸々の公事を終えられ、逆度(逆度)を調整する公事に着手なされた。京石・光燦・乃聖は大興里へ赴き、元一は申京元の家へ、亨烈と自賢は東谷へと発った。上帝は残された文公信・黄応宗・申京洙らに「京石は誠(誠)敬(敬)信(信)が極めて至っており、別途用いてみようかと思っていたが、自ら請う事ゆえ致し方なし」と仰せられ、また「もともと東学が輔国安民(輔國安民)を主張していたのは、後天の事を叫んでいたに過ぎず、心は各々王侯将相(王侯將相)を望んでいたが、所願を成就することなく引き連れられて死んだ者が数万人である。怨恨が天に蒼として、その神明らをそのままにしておけば後天において逆度に引っかかり、政事が乱れるため、その神明らの解寃頭目を定めようとしているのだが、京石が十二帝国を口にしたのは、これは自請するものである。彼の父は東学の重鎮として捕えられ殺され、彼もまた東学総代を務めていたゆえ、いまより東学神明らをすべて京石に付してやったので、この場より王侯将相(王侯將相)の解寃となるであろう」と仰せられ、紙に文を書きながら外人の出入りを禁じ、「後日に見よ。金銭消費が多くなるであろうし、人もまた甲午年よりも多くなるであろう。解き放しておかねば後天に何ら拘りがなくなるのである」とお言葉を結ばれた。226)
上の例文は、東学に参加した大部分の者たちが、表向きには輔国安民を叫びつつも内心では王侯将相を図っていたことを示す。外有気化の特性を持つ東学思想の地人関係は、多様な方面へと拡張された。
大巡思想の自生的近代性と治乱の再活性化
人身降世(人身降世)天界観(天界観)の自生的近代性
天界観(天界観)としての天観(天観)
超越天の介入による東学思想の天観・地観・人間観の変化は、大巡思想において上帝の人身降世によって再活性化される。東学思想の超越天が人世に出現するにとどまったのに対し、大巡思想においては人間の身体をもって直接降世する。大巡思想の天界観成立過程は、東学思想の出現過程を要約的に説明する次の一節においてより明確に現れる。
上帝、九天におわしますに、神聖・仏・菩薩らが上帝にあらざれば混乱に陥った天地を正しうる者なしと訴えるがゆえに、西洋(西洋)大法国天界塔に降りられ、三界を巡られ天下を大巡なされたが、東土にとどまり、母岳山金山寺の弥勒金像に臨んで三十年を過ごされながら、崔水雲に天命と神教を下し大道を立てさせられたが、甲子年に天命と神教を回収し、辛未年に自ら世に降りることを定められた。1)
超越天は東学思想において初めて人世に出現したが、出現のみでは人間がその意を理解しえなかったため、ついには人間の姿をもって降世する。その背景は、マテオ・リッチによって物質中心の西洋近代性が天下尽滅を招来した状況である。近代東アジアの思想のうち、民族主義を超越して西洋近代性が有する人類絶滅の危機を警告したものは、大巡思想以外には見出しがたい。上帝の人身降世もまた、東学思想における超越天の出現と同様、天観・地観・人間観に総体的な変化をもたらした。
いまや天をも引きはがして直し、地をも引きはがして直し、水も漏らさぬよう度数を組んでおいたゆえに、各々の限度に巡り当たり次第に新たな機軸が開かれるであろう。また神明をして人の腹中に出入りせしめ、その体質と性格を直して用いるであろう。これはたとえ杭であろうとも、気運を付ければ用となる所以である。ただ愚かなる者・貧しき者・賤しき者・弱き者を片寄って愛し、心と口と意より起こる一切の罪を慎み、人に隻を結ぶことなかれ。富み・貴く・智慧あり・強権を持つ者は皆隻にかかって豆もやしのごとく抜かれてしまうであろう。古き気運の満たされたる所には大いなる運数を担うことが難しきゆえである。富者の家の床と部屋と倉には殺気と災殃が満ち満ちているのである。2)
大巡思想において超越天は九天と称される。3)九天が降世されるのは、これまで機能してきた天と地を新たに直すためである。天と地を天において直さず、直接人間として生まれて直すのは、人間として生まれてこそ人間の立場から天と地の姿を見ることができるからである。太初に天と地を分けた九天は、いまや人間となり、自ら作った天と地を引きはがして直す存在へと転じる。
上帝、ある日、従徒らが集まっていた席において「古き天は人を殺す公事ばかりを行ってきた。今後、日用百物がすべて乏しくなり生きていけなくなるであろうから、いま引きはがして直さねばならぬ」と仰せられ、三日間公事をご覧になられた。上帝は公事を終えられ「ようやく延命だけは行えるようにしたものの、壮丁は腹を満たせず、ひもじいという声が九天に達するであろう」と仰せられた。4)
既存宗教において究極的存在と見なされてきた天が、天上の天の立場からは古き天となる天観の変化が、九天の人身降世によって顕現する。乱世に当たって構造を変える解法が九天によって提示されるのである。九天はここで東学思想のように既存の天を新たに更新する「再開闢」を追求するのではなく、引きはがして直す改造の方式によって「後天開闢」を志向する。天観の近代性が九天によって顕現する再活性化の形態は、天と地を引きはがして直し改造する天地公事の形態として現れる。天を引きはがして直す公事は冥府より始まる。
上帝、「先天においては人間事物がすべて相克に支配され、世に怨恨が積み重なり結ばれて三界を満たし、天地が常道(常道)を失って各種の災禍が起こり、世は惨澹たるものとなった。それゆえ我が天地の度数を整理し、神明を造化して万古の怨恨を解き、相生(相生)の道をもって後天の仙境を立て、世界の民生を済度せんとする。およそ大小の事を問わず、神道より怨を解かねばならぬ。まず度数を堅固に造化させれば、それが機軸となって人事は自ずから成就するであろう。これこそが三界公事(三界公事)である」と金亨烈に仰せられ、そのうちの冥府公事(冥府公事)の一部に着手された。5)
上の例文において「度数を堅固に造化させればそれが機軸となって」の意味は、森羅万象の根源たる天地を新たに変えるという意である。東学思想に現れた超越天の出現と、大巡思想に現れた九天の人身降世の差異は、超越天に実体があるか否かの差にある。超越天が実体を有するのは人身降世によってである。超越天によって招来された土地と人間の地位上昇は、実体を持つ人身降世を通じて拡大され、ついには地観と人間観もまた実体を有することとなる。上帝の人身降世は、人間と超越天が心のみならず身体までをも通じうる存在となることを意味し、土地もまた上帝が出現しうる存在であるという地位の格上げをなす。
九天が人身降世以降に天と地を引きはがして直そうとするや、既存の天と地を運行していた神明が出現する。これにより大巡思想においては、東学思想には現れない神明界から成る天界・地界・人間界が現れる。したがって大巡思想の天観の特徴は、三界(三界)のうち天界(天界)という用語で代表される。大巡思想において三界という用語が、天界・地界・人間界を意味する用語として用いられていることを、次の一節は示している。
その三界公事はすなわち天・地・人の三界を開闢することであり、この開闢は他人が作り上げたものに従って行う事ではなく、新しく作られるものであって、過去にもなく、いまもなく、他人から受け継いだものでもなく、運数にある事でもなく、ただ上帝によって作られねばならぬ事である。6)
上の例文において、天界・三界の界(界)という用語は、天地人を三才(三才)と称する際の才(才)とは対比される用語である。三才(三才)は、三つの大きな材木・材料・才能という意味を有する。上の例文において三界の界(界)は、世界(世界)の界(界)であり、三才と三界が異なるのは、三界は三才よりも神明界のような複雑かつ多様な内部世界、すなわちシステムを表現していることである。このような神明のシステムを基盤として、大巡思想の三界は天・地・人の間の力動的かつ現在的な変化が同時に行われるという点が、既存の三才とは異なる差異となる。
大巡思想の三界(三界)は、天界のみを意味する仏教の三界とは異なる。三界という用語が東洋宗教において初めて明確に用いられた宗教は仏教であるが、仏教の三界は欲界(欲界)・色界(色界)・無色界(無色界)から成る天界を意味するため、天界・地界・人間界を包含する大巡思想の三界とは異なる。大巡思想の三界は、天地人三才(三才)における内部的なシステムを強調した表現に近い。
仏教において三界(三界、trailokya または triloka)は、欲界(欲界、desire realm)・色界(色界、form realm)・無色界(無色界、formless realm)を指すが、仏教の三界概念はインド伝統の三界の影響を受けており、それ以前の三界は東西洋共通の天文に由来するとされる。道教においても天地人を三才(三才)と称するが、三界を天界・地界・人界と確定的に表現した場合は大巡思想が最初である。
天観・地観・人間観は英語ではコスモロジー(Cosmology)といいうる。世界観がworldview、宇宙観がUniverse theoryであるとすれば、Cosmologyとしての天観・地観・人間観は英語ではanthropocentricityあるいは人間中心の宇宙観に近く、自然中心の宇宙観であるAstronomyとはやや異なる。三界観もまたanthropocentricityに近い。
大巡思想の天界観の成立においては段階的変化のようなものは現れないが、天地公事以前と以後の天界観として区分され、天界観を説明する段階に従って天界観が明確に現れる。したがって大巡思想の天界観の成立は、大巡思想の天界観が現れる過程を通じて考察することができる。大巡思想において天界観は水雲の天師問答から現れる。大巡思想の「預示」篇は次のように表現する。
先天の度数を引きはがして直し、後天の無窮なる仙境の運路を開き、先天における相克に伴うあらゆる怨恨を解き、相生(相生)の道(道)をもって世界の蒼生を済度せんとする上帝の意は、すでに世に弘布されたところである。7)
上の文において結局「弘布されたところ」と称するのは、甑山が天命と神教を下したという東学思想を意味する。東学思想は短期間で原野の野火のごとく広がっていったが、甑山の思想が世にさらに広く知られたのは、より後の普天教および无極道の時代である。したがって大巡思想は東学思想を甑山の思想と見なしていることが上の文よりわかる。『典経』「預示」部分の上記の一節を通じて、東学思想に現れた「天地が鬼神であり鬼神が陰陽である」という一節と「上帝を鬼神と称す」という東学思想の天観は、大巡思想の天界観と同一のものとして大巡思想が解釈していることがわかる。8)
「天地が鬼神であり鬼神が陰陽である」という文句に代表される東学思想の天観が、東洋の属性的天観のうち鬼神という実体概念が部分的に反映されたものであるとすれば、大巡思想の天界観においては実体としての神明概念が「界」というシステムの中で極めて詳細な様相として現れる。東学の成立に天師問答が決定的であったとすれば、大巡思想の場合はマテオ・リッチから始まった近代文明の弊害が上帝の人身降世の決定的背景であったことを、次の例文はより詳細に示している。
上帝、ある日、金亨烈に仰せて「西洋人マテオ・リッチ(利瑪竇)が東洋に来たって地上天国を立てようとしたが、長く根を張っていた儒教の弊習ゆえに容易に改革できず、その意を成就できなかった。ただ天上と地下の境界を開放し、各々の地域を堅く守って互いに往来できなかった神明を相互に往来せしめ、彼の死後、東洋の文明神(文明神)を率いて西洋へ赴き、文運(文運)を開いた。これより地下神は天上の諸々の妙法を本受け、人世においてこれを施した。西洋のあらゆる文物は天国の模型を本としたものである」と仰せられ、「その文明は物質に偏って、かえって人類の傲慢を助長し、ついには天理を揺るがし自然を征服しようとするところより、あらゆる罪悪を絶えず犯し、神道の権威を失墜させたため、天道と人事の常道が乖離し、三界が混乱して道の根源が断たれることとなり、原始の諸々の神聖と仏と菩薩が会集し、人類と神明界のこの劫厄を九天に訴えるゆえに……崔済愚(崔濟愚)に済世大道(濟世大道)を啓示したが、済愚は儒教の典憲を超えて大道の真意を明らかにすることができなかったため、甲子(甲子)年についに天命と神教(神教)を回収し、辛未(辛未)年に降世した」と仰せられた。9)
大巡思想は、マテオ・リッチから招来された近代文明の危機により、神聖・仏・菩薩が九天上帝の人身降世を要請し、それに従って水雲に天命と神教を下した後、成果がなかったため直接人身降世したものと説明している。東西洋の出会いから招来された西欧的近代性が引き起こした弊害が、大巡思想の天観の成立背景となる。
東学思想によって提起されていた聖俗の再配置と相関的思惟のリミナリティは、大巡思想の再活性化によって成就される。大巡思想はこの成就を、万物の理を統合する開闢ともいい、万物が熟する西神司命(西神司命)ともいう。神明は天外の天、すなわち九天10)の命によって、天地によって人間を化育する存在であった。11)大巡思想の天観が開闢と西神司命をなしうる理由は、東学思想の天観には見られなかった神明の概念が導入されるからである。12)
大巡思想が東学思想と異なって神明を介入させえたのは、上帝の人身降世のためである。啓示の形態に留まっていた東学思想とは異なり、大巡思想は上帝の人身降世によって、神明が人間の心に往来しつつ介入する契機が整えられる。東学思想において人間は天外の天と意思疎通しうる存在へと格上げされるが、いまや九天が降世する存在へと格上げされる。これは九天の人身降世であり、大巡思想の天観はこれにより人身降世を特徴とする。人身降世はしたがって、東学思想によって始められた聖俗の再配置とリミナリティを完成させるのである。
人身降世(人身降世)の天界観(天界観)
大巡思想の天界観の様相は、上帝の人身降世と天界観の細分化に集約される。大巡思想の天界観は、上帝のおわします天外の天、すなわち天地人の外部の天と、上帝の使命を受けた天地神明が主宰する天地人に区分された天、そして先霊神のおわしますまた別の天などへと細分化される。これは従徒たる金松煥との問答においてまず顕現する。
ある日、金松煥(金松煥)が上帝に「天の上にまた天がございますか」と問うた。上帝は「ある」とお答えになられた。さらに彼が「その上にまたございますか」と問うと、上帝は「またある」とお答えになられた。このようにして九度お答えになられ、「それくらい知っておけ」と仰せられた。上帝は後日、彼を万事不成(萬事不成)と評された。
上の例文において、大巡思想の天界観は九つ以上の重なり合う天界から成ることがわかる。大巡思想の天界観がまず、天外の天たる九天と、上帝の命に従って万物を化育する天地人に分かれた天地人の天とに区分されることは、次の一節に現れる。
雷声(雷聲)と称するは天令(天令)であり、仁声(仁聲)である。雷(雷)は陰陽二気(陰陽二氣)の結合(結合)によって成雷(成雷)される。雷(雷)は声(聲)の体(體)であり、声(聲)は雷(雷)の用(用)として、天地(天地)を分かち、動静進退(動靜進退)の変化(變化)によって天気(天氣)と地気(地氣)を昇降(昇降)せしめ、万物(萬物)を生長(生長)させ、生成変化(生成變化)・支配滋養(支配滋養)することを意味するものであり、13)
上の例文は九天によって天地が生成される背景を示す。上の例文は大巡思想において信仰の対象である「九天応元雷声普化天尊姜聖上帝」の神位のうち「雷声」部分を説明した文である。上の例文は第一に、「天地を分かち」という部分において、天地が上帝によって雷声をもって分かたれ作られたことを示す。第二に、「天気(天氣)と地気(地氣)を昇降(昇降)せしめ」は、天界と地界が互いに昇降を通じて万物を化育する原理が、上帝によって意図されたものであることを示す。第三に、「万物(萬物)を生長(生長)させ、生成変化(生成變化)・支配滋養(支配滋養)」は、天地が上帝によって創造されたのみならず、造化されつつあることを示している。
大巡思想において天界観が複雑に構成されねばならない理由は、天地の運行が極めて体系的でなくてはならないためである。次の一節は、大巡思想の天(天)が上帝の命によって遂行する役割と機能を示している。
上帝、従徒らが集まっていた所において仰せて「七山(七山)の海で獲れる石持ちもまた、食する者を定めておいて網に獲られ、農作もまたそれと同様、食する者を定めておいて結ぶのである。飢え死ぬということはない」と仰せられた。14)
上の例文は、人間の吉凶禍福を含めて天地の化育が、神明による天地の運行に従って決定されることを示している。天は七山の海で獲れる石持ちの数までをも定めている。上の例文の三界観は、今日科学において我々が住む宇宙と同一のもう一つの宇宙が存在可能であるとされる並行宇宙観と類似する。15)
大巡思想において、このような人間界の万事を定める天地そのものもまた、上帝によって造化されたものである。大巡思想において天地神明が天地の運行を主管する過程は次のように現れる。
上帝、ある日、金亨烈に「三界の大権を主宰し、造化をもって天地を開闢し、後天仙境(後天仙境)を開いて苦海に陥った衆生を広く済度せんとする」と仰せられ、また仰せて
「いまや末世に当たり、これから無極大運(無極大運)が開かれるが
あらゆる事に心して人に隻を結ばず、罪を遠ざけ
純潔な心をもって天地公庭(天地公庭)に参与せよ」
と仰せられ、彼に神眼を開いてやり、神明の会散と聴令(聽令)を参観させられた。16)
上の例文において、天地神明は会散(會散)を通じて上帝の天命を聴令(聽令)することがわかる。しかしこの聴令と会散は、天地の至極なる誠敬信による努力によって可能となる。天地は風雨を起こすにも数多くの努力が傾注される。
この言葉を終えられ、公又に「天地の造化をもって風雨を起こすには無限の功力を要するゆえ、あらゆる事において工夫せずして知る法はない。鄭北窓(鄭北窓)のような才能であっても、入山三日後にはじめて天下のことを知ったというのである」と仰せられた。17)
上の例文において、風雨を起こすのに無限の功力を要するとは、複雑な体系として天界が成り立っていることを示している。したがって天もまた古き天となり18)、新たに変わって新たな天ともなる。
上帝、ある日、従徒らが集まっていた席において「古き天は人を殺す公事ばかりを行ってきた。今後、日用百物がすべて乏しくなり生きていけなくなるであろうから、いま引きはがして直さねばならぬ」と仰せられ、三日間公事をご覧になられた。上帝は公事を終えられ「ようやく延命だけは行えるようにしたものの、壮丁は腹を満たせず、ひもじいという声が九天に達するであろう」と仰せられた。19)
上の例文は第一に、上帝によって分かたれた天が古くなれば古き天となりうることを示す。第二に、三界が混乱すれば三界が互いを殺そうとする衝突の状況に至りうることを示している。天もまた引きはがして直さねばならぬのであって、これは上帝によって意図される。20)
大巡思想に現れた天観は、究極的存在であった天という既存の天観に対して、既存の天観を包越する天観を示している。「神は死んだ」として既存の天観を全面否定し天という存在自体を否定した西洋の近代的天観とは異なり、既存の天を認めつつも、既存の天が古くなったため新しい天へと交替するという加宗(加宗)の概念によって天観を提示する。これを通じて神明の聴令と会散という既存の天の概念もまた廃棄されず継承される。西洋の超越天が東洋の神明とも実体として相互融和される天観として、大巡思想は聖俗の関係を再配置し、日常の中に聖が入り込むことによって自生的近代性を完成し、自生的脱近代性にまで展開される。
人身降世(人身降世)天界観(天界観)に現れた東西洋天観(天観)の再活性化
人身降世(人身降世)天界観(天界観)に現れた儒仏仙天観(天観)の再活性化
人身降世によって実体化された大巡思想の九天天観は、東アジアの天観の細部の様相についても統合的再解釈を提示した。大巡思想に現れた儒仏仙の天観と大巡思想の天観の差異は、儒仏仙と大巡思想が共有する陰陽五行原理のうち「土」の解釈の差異にある。
また、上帝、ある日に仰せて「我こそが弥勒である。金山寺(金山寺)弥勒殿(彌勒殿)の六丈金身(六丈金神)は如意珠を手に受けているが、我は口に含んでいる」と仰せられた。そして上帝は従徒らに下唇を見せられたが、そこに赤い点があり、上帝の御顔は金山寺の弥勒金身と酷似されており、両眉間に円い白毫珠(白毫珠)があり、左の手のひらに壬(壬)字、右の手のひらに戊(戊)字があるのを従徒らは見た。21)
上の例文において「左の手のひらに壬(壬)字、右の手のひらに戊(戊)字がある」というのは、大巡思想の修練姿勢において右手が左手の上に上るという点から、典型的な「土克水」の姿を示している。
土克水は『抱朴子』において、五行の五要素が土と水の二要素に圧縮されうるという内容を叙述したものである。ここで水は地水火風に即していえば地水火風を代表し、土は第五元素に該当する。五行もまた、河図(河圖)においては地水火風と同じく第五元素が分離されて同時に存在していたが、属性中心の相関的思惟が相克化される洛書となるにつれて、第五元素は内部へと編入され、これによって内在神のみが残り、超越神は隠れた神として有名無実化される。これより東洋の権力は専制化され、儒教の典憲が強化される。22)