上帝はある日、京石に向かって「以前はお前が私の言葉に従ったが、今日は私がお前の言葉に従って公事を処決することになるので、問うままによく考えて答えよ」と仰せられ、「西洋人が発明した文明の利器は、そのまま残すのが正しいか、取り払うのが正しいか」と再び問われると、京石は「そのまま残して利用することが蒼生の便宜になるかと存じます」と答えた。上帝はその言葉を正しいと仰せられながら、「彼らの機械は天国のものを模倣したものである」と仰せられ、また上帝は種々のことを問われた後、公事として決定された。『典経』「公事」一-三五。
『典経』「公事」一-三五。
右の例文は、西洋近代性の地界観に対する総体的な性格規定を示している。まず「西洋人が発明した文明の利器」という一句は、地に対する西洋近代性の特徴が文明の利器にあることを示している。文明の利器は、歴史的に西洋近代性を総体的に象徴する象徴物であった。まず銃・刀・列車などに代表される西洋の文明の利器は、近代以後、原子論へと転換した西洋の天観・地観・人間観を反映している。
デカルトの「コギト・エルゴ・スム(Cogito ergo sum、われ思う、ゆえにわれあり)」という命題は、短い一句ではあるが、変化した西洋の天観・地観・人間観を全体的に含意している。カルヴァンの予定説に始まった西洋の近代であったが、マテオ・リッチ以後に伝来した属性中心の東洋的世界観は、神を中心として成り立っていた西洋の実体論的世界観において唯一残っていた唯一神までも否定する契機をもたらし、唯一神が消えた世界において唯一神を代替する新たな実体を見出さねばならぬという課題を抱えることとなった。これに対する最も有力な対応策として登場したのが、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」という命題であった。
デカルトの「コギト・エルゴ・スム」は、唯一神が消えた以上、いま信じうるものは「われ思う」という一つの事実のみであるから、すべての天観・地観・人間観を「コギト・エルゴ・スム」の上に再構成するというものであり、これが西洋近代性を代表する構成主義(構成主義、constructivism)の核心であった。デカルトに対して逆に、宇宙全体が神であるとするスピノザの汎神論(汎神論、pantheism)や、気のように存在するというライプニッツの単子論(単子論、La Monadologie)もあったが、デカルトの構成主義はカントを経て西洋近代の天観・地観・人間観として定着し、特に地観においてその実践を加速させた。
近代以後の西洋にとって、地とは原子から構成された物質の組み合わせにすぎず、人間の役割は原子の特性を利用して文明の利器を作ることであった。逆説的なのは、原子の法則もまた天観・地観・人間観の原理に従ったものであったが、そのような主張は隠蔽されたという点である。いまや人間は文明の利器を作る道具的理性の存在となり、西洋のみが道具的理性を持つ人間となる。しかし右の例文は、この文明の利器が、マテオ・リッチが開放した天上と地下の境界開放によって 『典経』「教運」一-九。 天の文明が地の神明に伝えられ、地が人間のために繰り広げたものであると語っている。これにより、古びた天は人間を殺す天へと変貌した。『典経』「公事」一-一一。
『典経』「教運」一-九。
『典経』「公事」一-一一。
西洋の近代性は退路なく前進のみする危険な近代性であり、神明の恩恵も知らず自ら傲慢になって自滅している近代性であったが、右の例文はまた、西洋近代性の価値を「蒼生の便宜」という次元において高く評価している。この一句における「蒼生」とは、後天において道通をなしえず日常の生を生きていく存在を意味する。道通をなしていないがゆえに、日常を営むにあたって文明の利器は実に便利な手段となる。西洋の近代性は神明を排除したが、蒼生の便宜において発展を遂げたのは西洋の地の気運によるものであるから、各文明の長所が統合される開闢においては高く評価されうるのであった。『典経』「預示」三〇。
『典経』「預示」三〇。
右の例文において、大巡思想に現れた九天は、西洋の近代性に対して両義的に評価していることを確認できる。九天が西欧の近代性に対して両義的評価を下すということは、九天が意図的に西欧的近代性を志向したと言いうる余地がある。実際、大巡思想の九天は、西欧的近代性のような物質文明の重要性を非常に強調している。
力術を学ぶなかれ。汽車と輪船で百万斤を運搬しよう。縮地術を学ぶなかれ。雲車(雲車)に乗り風を制御して、万里の道を瞬時に往来しよう。『典経』「預示」七五。
『典経』「預示」七五。
右の例文は、蒼生の便宜が先天の道術を凌駕する様相を示している。大巡思想においては、大巡思想を先天の道術と混同しないことを強調している。大巡思想は東学思想と同じく、既存に出現した真理体系には見出すことのできない真理であるため、先天の道術を学ばないことを勧めるのである。
天地に水気(水気)がめぐるとき、万国の人々は学ばずとも通語(通語)するようになり、水気がめぐるとき、がらがらと音が鳴るであろう。『典経』「預示」五一。
『典経』「預示」五一。
大巡思想が語る文明の範囲は、汽車や輪船のような実体的な内容のみならず、言語のような抽象的な内容までをも含むことを意味する。天地公事が始まって百余年が過ぎた今日になってようやく実現する技術の発展が、当時に予測されていたわけである。
金山寺で上帝に従って行ったとき、上帝が従徒たちに
天皇(天皇) 地皇(地皇) 人皇(人皇) 後 天下之大金山(天下之大金山)
母岳山下(母岳山下)に 金仏(金仏)が 能言(能言)し
六丈金仏(六丈金仏)が 化為全女(化為全女)なり
万国活計南朝鮮(萬國活計南朝鮮) 清風明月金山寺(淸風明月金山寺)
文明開花三千国(文明開花三千國) 道術運通九万里(道術運通九萬里)
という一句を唱えて与えられた。『典経』「預示」一四。
『典経』「預示」一四。
右の例文は、大巡思想が語る近代性の範囲が、西洋の近代性を包含する、はるかに広範かつ長期的な観点の近代性であることを示している。また、天皇・地皇・人皇という『史記』に現れる文明始原についての言及は、近代性が実は伝統と連結していることを示している。
「この世に学校を広く建てて人を教えるのは、まさに天下を大いに文明化し、三界の役事に付して神人(神人)の解冤を解こうとするものであるが、現下の学校教育は学ぶ者をして官吏の俸禄など卑劣な功利にのみ陥らせるので、それゆえ板の外で成道することとなったのである」と仰せられ、言葉を終えられた。『典経』「教運」一-一七。
『典経』「教運」一-一七。
右の例文は、西洋の近代性が、マテオ・リッチによって西洋の文運が開かれたときの趣旨とは異なり、利財のためにのみ活用する人間によって当初の趣旨を生かせなかったことを示している。以後、西洋は神明を否定し冷遇し、当初の趣旨は生かせなかったが、蒼生の便宜を図ったという長所は認められる。
上帝はある日、京石に向かって「以前はお前が私の言葉に従ったが、今日は私がお前の言葉に従って公事を処決することになるので、問うままによく考えて答えよ」と仰せられ、「西洋人が発明した文明の利器は、そのまま残すのが正しいか、取り払うのが正しいか」と再び問われると、京石は「そのまま残して利用することが蒼生の便宜になるかと存じます」と答えた。上帝はその言葉を正しいと仰せられながら、「彼らの機械は天国のものを模倣したものである」と仰せられ、また上帝は種々のことを問われた後、公事として決定された。『典経』「公事」一-三五。
『典経』「公事」一-三五。
西洋の文明が蒼生の便宜を図るようになったのは、地の気運の影響として現れる。ただし、地の気運の差異は、各文化の発展のみならず反目をも誘発しうるため、地気を統一する公事によって相互の発展を図りうるという。
また上帝は仰せられた。「地気が統一されないことによって、その中で生きている人類はそれぞれ思想が食い違い、それぞれが考えて反目し争闘するのである。これをなくすには、解冤によって万古の神明を調化し、天地の度数を調整しなければならず、これが成し遂げられれば天地は開闢され、仙境が建てられるであろう」と仰せられた。『典経』「公事」三-五。
『典経』「公事」三-五。
右の例文に現れた、互いに異なる地気の影響は、文化のみならず宗教の領域においても現れる。宗教の領域において宗教は、地の気運と合わさって文化発展に寄与するようにもなる。儒仏仙もまた、互いに三合をなしうる。
四月のある日、金甫敬の家で公事を行われたが、白紙四枚を広げられ、紙の隅ごとに「泉谷(泉谷)」と書かれたので、その意味を致福が伺って問うと、上帝は「昔、絶祀した県令の名である」と教えられ、致福と松煥に、文字を書いた紙を向かい合って持たせ、「その様子は喪輿の護防傘(護防傘)のようである」と仰せられた。
そして甲七は、上帝の言葉があって外に出て戻り、西の空に一点の雲があることを申し上げると、再び命じられたので、また出て空を見て戻り、一点の雲が空全体を覆ったことを伺ったところ、上帝は白紙一枚の真ん中に四明堂(四明堂)と書かれ、致福に向かって仰せられた。「弓乙歌にある四明堂更生という言葉は、僧の四明堂ではなく、明という字を書いた四明堂であり、造化は仏法(仏法)にあるので胡僧礼仏穴(胡僧禮佛穴)である。無病長寿(無病長寿)は仙術(仙術)にあるので五仙囲碁穴(五仙圍碁穴)である。国泰民安(国泰民安)は群臣奉詔穴(群臣奉詔穴)である。仙女織錦穴(仙女織錦穴)で蒼生に絹の衣を着せようと思うので、六月十五日に神農氏(神農氏)の祭祀を行って公事を行おう。今年は天地の捍門(捍門)である。今、事を行わなければ事を成し遂げられぬのである」と仰せられた。
右の例文は、儒仏仙に代表される各文明の基盤が地の気運にあり、その地はそれぞれ天の意を代表していたことを示している。右の例文において、西教の部分と推定される箇所は仙女織錦穴であり、右の例文においても蒼生に絹の衣を着せるとして、蒼生の便宜を強調している。
九天に対する認識転換は、近代性において常に鍵となってきた。東学思想において天外天が東洋思想で初めて出現するが、西洋の場合は天外天を天の概念とみなす土台の文化であったため、地観についても、天に感応する東洋の地観に比べて実体的な属性をより多く持っていた。西洋の地観の実用的性格について、蒼生の便宜に関する内容は「錦衣蒼生」という部分に代表される。大巡思想は地気統一公事を通じて東西洋の地観を再活性化する。
地上天国(地上天国)の天地関係に現れた東西洋天地関係の再活性化
地上天国に関する言説と関連して、大巡思想に現れる特徴は二つである。第一は地上天国に対する理論的背景を明らかにする点であり、第二は地上天国の現象を示すという点である。
まず、大巡思想が地上天国の原理を明らかにしたのは、地上天国の原理が陰陽合徳の原理に従って具現されるという点である。大巡思想において天地関係は、天円地方の天地構成原理に従い、天地神明の相互作用によって森羅万象を化育する体系となる。天地は陰と陽の一方ずつのみを担っているため、人間の道通があってこそ成功しうる存在であり、道通君子の化育を目標とする。魂の性格を持つ天は形体のない企画を行うので、天円地方・天文地理・天道地徳の場合と同じく、魂の性格を持つ円(円)・文(文)・道(道)の役割を遂行し、反面、魄(魄)の性格を持つ地は形体があって実行を行うので、天円地方・天文地理・天道地徳の場合と同じく、魄の性格を持つ方(方)・理(理)・徳(徳)の役割を遂行する。大巡思想の呪文には、天地の二十八宿と二十四節候、天地造化、天地八門、天地遁甲を遂行する神明たちが体系的に現れる。
伝統的に、地上天国は想像の中に存在する希望事項としてのみ理解されてきた。大巡思想は、西洋という見知らぬ他者が出現する局面を迎え、東洋と西洋の関係を陰陽の原理によって解釈し、自生的な西洋理解の転機を準備する。同様に、地上天国についても陰陽の原理を適用し、西洋によって進行されていた地上天国の意味を東洋的に理解させた。
目的(目的)
無自欺(無自欺) 精神開闢(精神開闢)
地上神仙実現(地上神仙實現) 人間改造(人間改造)
地上天国建設(地上天國建設) 世界開闢(世界開闢)『典経』「教運」二-三二。
『典経』「教運」二-三二。
右の例文は、道主趙鼎山によって一九二五年乙丑年に九天を九天応元雷声普化天尊上帝(九天應元雷聲普化天尊上帝)に奉安した後、大巡思想の宗旨・目的・信条を明らかにする際に、目的として説明した部分である。当時、甑山の思想についての多くの研究者がいたが、大巡思想を宗旨・目的・信条として明確に区分したのは道主趙鼎山が初めてであった。
右の例文において目的とは、天地公事を含め、数多くの甑山の行跡がいかなる意図のもとにあったのかを明示する部分である。右の例文において世界開闢という表現になっている地上天国建設は、地上天国が陰陽合徳という開闢の次元において理解されていることを示している。
次に第二の地上天国の現象を見てみると、大巡思想は地上天国の姿を理を通じて説明している。
後天では、種子を一度植えれば毎年根から新芽が萌え出て収穫することになり、地も手入れせずとも沃土となるであろう。これは地を三尺三寸焼く理由である。『典経』「教法」三-四一。
『典経』「教法」三-四一。
右の例文は、後天の地上天国における地を描写した箇所である。後天の地は、種を蒔かずとも作物がひとりでに育つ。陰陽合徳の原理に従って天と同じく地位が上昇した地は、その機能面においても天と対応する。一方、後天を導く道通君子と共にいる道通神明が存在する場所も、地において最も秀麗とされる金剛山となる。
上帝は泰仁の道昌峴にある井戸を指して「これが乳(乳)泉である」と仰せられ、「道はまさに金剛山一万二千峰に応気して、一万二千の道通君子で昌盛するであろう。しかし後天の道通君子には女子が多いであろう」と仰せられ、
「上有道昌中有泰仁下有大覚(上有道昌中有泰仁下有大覺)」
と仰せられた。『典経』「預示」四五。
『典経』「預示」四五。
地上天国は甑山の人身降世によって現実化されたが、地上天国は天地が作られたときから意図された原理であったため、降世以前から持続的に追求されてきた。西洋の宗教においては天国と地上をおおむね分離したが、新羅の仏国土や花郎のような事例に見られるように、東洋においては持続的に結合が追求される。
大巡思想において地上天国を実現することは、「典教」に現れるように、四千六百余年にわたる歴史の中で世に出現した聖人と、儒仏仙の伝播を通じた人間に対する教育によるものとして現れる。『典経』は、天地の陰陽合徳と人間と神明の神人調化が成し遂げられ、天地が成功した後天の地上天国を次のように描写している。
後天にはまた、天下が一つの家となり、威武や刑罰を用いずとも造化によって蒼生を法理に合うように治めるであろう。官職に就く者は化権が開かれて分に過ぎる法がなく、民は怨鬱や貪淫のすべての煩悩がなく、病んで苦しみ、死んで葬ることを免れて不老不死し、貧富の差別がなく、思いのままに往来し、天が低くなって昇り降りることが意のままになり、智慧が明らかになって過去と現在と未来と十方世界に通達し、世に水・火・風(水火風)の三災がなくなって、瑞祥が熟れる地上仙境へと化すであろう。『典経』「預示」八一。
『典経』「預示」八一。
右の例文において後天は、人間によって天地が調化されることを前提とするため、人間の教育と人間の変化が前提とされることを示している。このように、大巡思想の地上天国は、長い歴史の中で非常に緻密な論理を土台として成し遂げられていく。
あわせて、大巡思想においては原理とともに、地上天国と関連して歴史的な三つの事件が注目される。『典経』において地上天国を本格的に追求した人物は、堯帝・マテオ・リッチ・震黙大師である。大巡思想において陰陽合徳を通じて地上天国を建設しようとした第一の人物は堯帝である。
上帝は丁未年の臘月二十三日に申京守をその家に訪ねられた。上帝は堯(堯)の暦象日月星辰敬授人時(曆像日月星辰敬授人時)について仰せられ、「天地は日月がなければ空の殻であり、日月は知人(知人)がなければ虚影(虚影)であり、唐堯(唐堯)が日月の法を悟り出して民に教えたので、天の恩恵と地の理がはじめて人類に与えられたのである」と仰せられた。このとき上帝は日月無私治万物 江山有道受百行(日月無私治萬物 江山有道受百行)を教え、五呪(五呪)を作って天地の津液(津液)と名付けられたが、その五呪はこのようである。
新天地家家長歲 日月日月萬事知
侍天主造化定永世不忘萬事知
福祿誠敬信 壽命誠敬信 至氣今至願爲大降
明德觀音八陰八陽 至氣今至願爲大降
三界解魔大帝神位願趁天尊關聖帝君『典経』「教運」一-三〇。신천지가가장세 일월일월만사지. 시천주조화정영세불망만사지. 복록성경신 수명성경신 지기금지원위대강. 명덕관음팔음팔양 지기금지원위대강. 삼계해마대제신위원진천존관성제군.新天地には家ごとに不老長生を享受し、日月のように智慧が明らかになって万事を知るようになる。侍天主造化定永世不忘万事知、福禄も誠敬信であり、寿命も誠敬信にかかっている。至極なる気運がいま大いに降りることを願い奉る。明徳と観音、八陰八陽の至極なる気運がいま大いに降りることを願い奉る。三界解魔大帝神位願趁天尊関聖帝君。(교무부, 「돌병풍」, 『대순회보』 119, 2011)
『典経』「教運」一-三〇。신천지가가장세 일월일월만사지. 시천주조화정영세불망만사지. 복록성경신 수명성경신 지기금지원위대강. 명덕관음팔음팔양 지기금지원위대강. 삼계해마대제신위원진천존관성제군.新天地には家ごとに不老長生を享受し、日月のように智慧が明らかになって万事を知るようになる。侍天主造化定永世不忘万事知、福禄も誠敬信であり、寿命も誠敬信にかかっている。至極なる気運がいま大いに降りることを願い奉る。明徳と観音、八陰八陽の至極なる気運がいま大いに降りることを願い奉る。三界解魔大帝神位願趁天尊関聖帝君。(교무부, 「돌병풍」, 『대순회보』 119, 2011)
右の例文において、堯帝(帝堯陶唐氏、BC二三二四-BC二二五五)が天の恩恵である日月の法、すなわち時間の原理と、それに従う地の理を教え、地上天国となりうるよう道を開いたと大巡思想は評価する。
次に、近代と近い時期に大巡思想の地上天国を成し遂げようとした人物は、マテオ・リッチと震黙大師(震默、一五六二-一六三三)である。大巡思想において、マテオ・リッチの東方宣教は西学の地上天国建設の努力として高く評価される。西学の天堂は死後世界にあるものとして強調されたが、実際の西学の価値は地上天国の建設にあったものと大巡思想は評価する。マテオ・リッチ以前にも地上天国を模索しようとしたほかの人物たちが、大巡思想においては再照明される。これらの人物のなかには、神農氏(炎帝 神農氏)、姜太公(姜尚、B.C.一二一一-一〇七二)、関雲長(関羽、?-二一)、釈迦牟尼などがいる。『典経』「教運」一-一〇。
『典経』「教運」一-一〇。
儒教の弊習によって、マテオ・リッチの地上天国の試みは挫折した。しかし代わりに東西の境界が開放され、東洋の文明神は西洋へと渡り、西洋の地上天国建設に参与することとなる。しかし、人間の傲慢によって怨恨が解冤されない状態でのこの開放は、かえって三界の錯乱へと連結される。
大巡思想において地上天国建設のために努力するもう一人の人物は、震黙大師である。朝鮮中期に生き仏と呼ばれるほど異跡と伝説の主人公であった震黙大師は、天上に昇ってあらゆる妙法を学んで降り、人世にそれを施そうとしたが、これもまた儒学者である金鳳谷の陰害によって挫折する。
東学の失敗以後、百尺竿頭にあった東洋(東洋)の形勢は、その存亡の急迫さが百尺竿頭(百尺竿頭)にあったが、天地公事以後、日露戦争を契機として復活の転機を迎え、今日まで続いている。西洋より先んじていた東西洋の関係は、マテオ・リッチと震黙大師以後に逆転し、東洋は尽滅の危機に置かれてから復活する。天地公事以後、東西洋の交流は増幅され、東西洋の長所が合わさった文化が百五十余年間にわたって築かれてきた。
成事在人(成事在人)の人界観(人界観)の自生的近代性
人界観(人界観)としての人間観(人間観)
大巡思想の人界観の成立は、九天の人身降世から始まる。実体としての九天の人身降世は、九天の神位に現れた「姜聖上帝」という用語において明確に現れる。
姜聖上帝(姜聖上帝)とは
宇宙(宇宙)森羅万象(森羅萬象)を三界大権(三界大權)で主宰(主宰)管領(管領)され、観鑑万天(觀鑑萬天)される全知全能(全知全能)な神の尊称(尊称)であることを意味する。
「姜聖上帝(姜聖上帝)」は、人間界の姓を神位に追加することによって、九天が人身降世をなしたことを表してくれる。九天の人身降世によって、人界観は新たに形成される。人身降世の後、天地を運行していた神明は、運数の座を共にする人間を探しに出ることになる。人身降世以前には人間が神明を探してきたが、人身降世以後には神明が人間を探すようになる。
上帝は、朴公又が妻と争って銅谷を訪ねてきたので、突然叱って仰せられた。「私は毒であれば天下の毒をすべて持ち、善であれば天下の善をすべて持っている。お前がどうして私の前にいながら、そのような真実でない行為をするのか。いま天地神明が運数の座を探して、各人と各家庭を出入りしながら器局を試すであろう。性質が寛大でなく家庭において和気を失えば、神明たちが嘲笑い、大事を任せられぬ器局であると言って、互いに引き連れて去っていくであろうから、事に志を置く者が一時たりとも、どうして考えをおろそかにしてよかろうか」と仰せられた。『典経』「教法」一-四二。
『典経』「教法」一-四二。
運数の座とは、陰陽合徳の原理によって、後天において神明が共にする人と家庭を意味する。九天の人身降世によって人間の地位が格上げされる。大巡思想において神明と人間は、生と死の境界において区分される。人間は死ねば神明となり、神明が生まれれば人間となるのである。
金松煥が死後のことを伺って問うと、上帝は仰せられた。「人には魂と魄があり、人が死ねば魂は天に昇って神となり、後孫たちの祭祀を受けて、四代(四代)を越えた後には霊にもなり仙にもなるのである。魄は地に帰って四代が過ぎれば鬼になるのである」と仰せられた。『典経』「教法」一-五〇。
『典経』「教法」一-五〇。
神明と人間は、生と死によってみずからその形態を変える。すなわち人間は神が身という形体を持つことであり、人間が死によって形体を脱すれば神となる。ただし、修道をした人間は精と魂が結合して凝り固まるので、死んでも魂が消えずに天上に昇りうるが、修道をしなかった人間は煙が消えるように消える。
道を修めた者は、その精魂が固く凝り固まるので、死んでも散らずに天上に昇るであろうが、そうでない者は、その精魂が希薄であって、煙や水泡が消えるようであろう。『典経』「教法」二-二二。
『典経』「教法」二-二二。
右の例文において「精魂(精魂)」が魂と異なるのは、身体にある精気神(精気神)のうち、物質である精(精)と精神である魂(魂)が結合したものが精魂であるため、精魂は人間が生きているときのみ持つ魂となるからである。人間は修道の如何に従ってこの精魂の水準が決定される。これにより、神明と人間は陰陽関係を形成しうる。
神有人神陰人陽, …(中略) 神人以陰陽成造化…(中略) 神人和而萬事成神人合而百工成神明竢人人竢神明陰陽相合神人相通然後天道成而地道成神事成而人事成人事成而神事成『典経』「教運」二-四二。
『典経』「教運」二-四二。
神があり人があり、神は陰であり人は陽である。…
神と人は陰陽によって造化を起こす。…
神と人の仲が良くてこそ万事が成り、
神と人が協力してこそ百の功が成る。
神は人を待ち(望み)、人は神を待つ(望む)。
陰陽が互いに合し、神と人が互いに通じた後にこそ
天の道が完成し、地の道が完成する。
神の事が成ってこそ人の事が成り、
人の事が成ってこそ神の事が成る。교무부, 「신도(神道)에 대한 올바른 이해」, 『대순회보』 81, 2008,
교무부, 「신도(神道)에 대한 올바른 이해」, 『대순회보』 81, 2008,
右の例文において、神と人間が互いに依拠し引き合う理由は、身体を持つ人間は地上世界に変化を与えうるが見えない部分を知ることができず、神明は見えない部分を見ることができるが地上世界に変化を成すことができないからである。天の上の天が天地を化育するとき、神明と人間を区分して互いに交流させるのは、身体を持つ人間となれば努力を通じて広くよくこなしうるが一つの分野に卓越することはできず、身体のない神明となれば一つの分野には卓越しうるが、身体がないため他の分野を広くよくこなすことはできない存在となるからである。しかし、人間界の神明と天地の神明は区分される。
天地に神明が満ち満ちているので、たとえ草の葉一枚であっても神が離れれば枯れ、土を塗った壁であっても神が移っていけば崩れるのである。『典経』「教法」三-二。
『典経』「教法」三-二。
右の例文は、大巡思想において天観・地観・人間観が、神明に満ち満ちた天界・地界・人間界という神明システムであることを示している。これは、大巡思想の神人関係が有機的人間と機械的神明から構成され、この関係が天・地・人に反映されていることを示している。これにより九天は、神人依導(神人依導)の法を三界錯乱に対する処方として提示する。その核心は、人身降世以後に天下の問題を診断する三界大巡以後、「神」と「人間」が互いに助け合って世を変えることである。
神人依導(神人依導)の理法(理法)で解冤(解冤)を主(爲主)とし、天地公事(天地公事)を報恩(報恩)で終結(終結)されたので 『大巡真理会要覧』、「趣旨」。
『大巡真理会要覧』、「趣旨」。
三才(三才)理論において、人間は天地の疎通を仲裁する仲裁者として現れる。人界観と人間観もまた、「界(界)」が持つシステム的性格に従って事件が論理的に連結されるという差異点がある。三才の人間観が個別的な意思決定に焦点があるとすれば、三界の人界観にはシステム的な性格が強調される。したがって、人間が持つ仲裁的・接化的機能もまた組織的に現れる。
近代以後の百余年間、東洋と西洋はオリエンタリズムとオクシデンタリズムという両義的感情を互いに持つようになった。西洋は東洋を神秘化して東洋支配を正当化し、東洋は西洋を神秘化して東洋のアイデンティティ放棄を正当化した。百余年間の西洋近代文明の東洋起源の忘却は、今日の東洋の人々に、西洋近代の起源が東洋であることを信じられなくさせている。東洋の天観・地観・人間観は、危機状況において新たな天界観・地界観・人界観の出現を待つようになった。
成事在人(成事在人)の人界観(人界観)
九天の出現前と後の差異は、神明と人間の関係逆転において際立つ。常に神明を奉じていた人間が、近代に至って神に挑戦し神を否定する段階にまで至ったが、上帝の人身降世は、ついに神明が人間を認め、人間と協力をなすようにする契機となる。
「中察人事は道通を意味し、これは今後すべての権利やそのいかなるものであっても、人がすべて持つという意味である。それゆえ人が最も高くなる。…(中略) 昔は神封於天(神封於天)で、すべての権限を天が引き受けて行使し天尊時代であり、現在は神封於地(神封於地)で地が引き受けて行使するので地尊時代である。いまは地尊時代が終わったというが、引越しの際に方位を見、墓地を見るなど、いまだに地に依存するのは、地に権限を持っていたからである。今後は神封於人(神封於人)で、この権限を人が引き受けて行うことになる。」「都典様訓示」(一九八九・四・一二) 이광주, 「모사는 재천하고 성사는 재인이니라」, 『대순회보』 249호, 2021에서 재인용. 이 글에서 「도전님 훈시」란 박우당 도전의 훈시를 말한다. 이 글에서는 대순진리회의 공식 종단 소식지인 『대순회보』 에 인용된 것만을 채택해서 인용한다.
이광주, 「모사는 재천하고 성사는 재인이니라」, 『대순회보』 249호, 2021에서 재인용. 이 글에서 「도전님 훈시」란 박우당 도전의 훈시를 말한다. 이 글에서는 대순진리회의 공식 종단 소식지인 『대순회보』 에 인용된 것만을 채택해서 인용한다.
右の例文において、東洋が西洋と異なり、風水地理のような地の力が天ほどに大きく強調されてきた理由は、地に神明が奉安されたと考えたからであることがわかる。また、上帝の人身降世は、地に奉安されていた神明を人間に奉安する大きな機会であることがわかる。神明の罪と罰を恐れていた人間は、人身降世によって神明と同じ等級の位置に格上げされる。
九天の人身降世によってもたらされた地観と人間観の変化のうち、最も大きな変化は、「人間は何であり、なぜ存在するのか」という疑問の解決であった。大巡思想は、人間の存在理由に対する答えとして「心」を提示する。
心は一身(一身)の主(主)であり、人のすべての言語(言語)行動(行動)は心の表現(表現)である。その心には良心(良心)・私心(私心)の二つがある。良心(良心)は天性(天性)そのままの本心(本心)であり、私心(私心)は物欲(物慾)によって発動(発動)する欲心(欲心)である。元来(元来)、人性(人性)の本質(本質)は良心(良心)であるが、私心(私心)に囚われて道理(道理)に反する言動(言動)を敢行(敢行)するようになるのであり、私心(私心)を捨てて良心(良心)である天性(天性)を取り戻すことに専念(専念)せよ。人間(人間)のすべての罪悪(罪悪)の根源(根源)は心を欺くことから始まって起こるものであるから、人性(人性)の本質(本質)である正直(正直)と真実(真実)によって一切(一切)の罪悪(罪悪)を根絶(根絶)せよ。『大巡真理会要覧』、「訓誨」。
『大巡真理会要覧』、「訓誨」。
右の例文において、人間の心は天性を抱いた存在である。西洋において神の形に倣って作ったとされるように、人間の心は特に天の心と通じうるという。西洋は近代の百余年間、東洋に先んじてきたが、いまだ西洋の人文科学においては「心」という概念がない。
東洋の伝統において修行の根本機制とみなされてきた「心」は、大巡思想においては、九天の人身降世以後に地上天国が実現される契機にまで格上げされる。大巡思想において心は天地の宝であり、 『典経』「教運」二-四一。 天地も心に従って作動し、九天の人身降世も成し遂げられる。吾心即汝心、 오심즉여심, 『동경대전』, 「논학문」 東經大全, 「論學文」, “吾心卽…汝心也. 神明が人間に封じられるのも心があるからであり、心はそれゆえ霊魂の家である霊台(霊台)と呼ばれた。東学思想において「至気(至気)」が幾度も言及されるが、その「至気」を受けることになる心についての言及はまれである。人間は心を持つ存在であるからこそ天地と対等な三才をなすことになるというのが、人身降世以後に現れた人間の存在理由である。
『典経』「教運」二-四一。
오심즉여심, 『동경대전』, 「논학문」 東經大全, 「論學文」, “吾心卽…汝心也.
六月のある日、辛京元(辛京元)が泰仁から人を急ぎ遣わし、巡検が毎日その家に来て上帝のいる所を尋ねるという知らせを伝えさせた。上帝はその人を見て「急ぎの用で来る者が、途中で遅滞して遅れたのは何事か」と叱られると、その人は答えて「来る途中で唐花周易によって運命を批判する者がいたので、しばし遅滞しましたゆえお許しください」と言うと、上帝はすぐに文を書いて与えられ、「この文を京元に与え、見終わった後すぐに焼き捨てよ」と仰せられたが、その文はこのようである。
天用雨露之薄則必有萬方之怨
地用水土之薄則必有萬物之怨
人用德化之薄則必有萬事之怨
天用地用人用統在於心
心也者鬼神之樞機也門戶也道路也
開閉樞機出入門戶往來道路神
或有善或有惡
善者師之惡者改之
吾心之樞機門戶道路大於天地『典経』「行録」三-四四。 天が雨と露を薄く用いれば必ず万方に怨が結ばれ、地が水と土を薄く用いれば必ず万物に怨が結ばれ、人間が徳化を薄く用いれば必ず万事に怨が結ばれるのであり、天と地と人間の用いがすべて心にかかっている。(교무부, 「돌병풍」, 『대순회보』 119, 2011) 心とは鬼神の枢機であり門戸であり道路である。枢機を開閉し、門戸より出入りし、道路に往来する神があり、あるいは善でもありあるいは悪でもあるのである。善なるものは見習い、悪なるものは改めよ。枢機であり門戸であり道路である私の心は天地よりも大きいのである。(교무부, 「선자사지(善者師之) 악자개지(惡者改之)」, 『대순회보』 115, 2010)
『典経』「行録」三-四四。 天が雨と露を薄く用いれば必ず万方に怨が結ばれ、地が水と土を薄く用いれば必ず万物に怨が結ばれ、人間が徳化を薄く用いれば必ず万事に怨が結ばれるのであり、天と地と人間の用いがすべて心にかかっている。(교무부, 「돌병풍」, 『대순회보』 119, 2011) 心とは鬼神の枢機であり門戸であり道路である。枢機を開閉し、門戸より出入りし、道路に往来する神があり、あるいは善でもありあるいは悪でもあるのである。善なるものは見習い、悪なるものは改めよ。枢機であり門戸であり道路である私の心は天地よりも大きいのである。(교무부, 「선자사지(善者師之) 악자개지(惡者改之)」, 『대순회보』 115, 2010)
右の例文において、天が雨露を降らせ、地が水土の徳を用いるのは心にかかっている。天地は化育のために人間の望むままに動いてくれるので、地もまた人間の意に従ってくれる。人間の心は神明が出入りする通路と家となる。加一倍法(加一倍法)というリミナリティの原理に従って、人尊時代に向かう前に地尊時代を経て、地尊時代から人尊時代へと移っていく過程において、多くの地の変動をも予測する研究者たちもいる。代表的に呑虚和尚は地の変化について多く言及した。 人間は心を持つ存在であるからこそ、心が実体化される恩怨関係(恩怨関係)において心の価値が決定される。
代表的に呑虚和尚は地の変化について多く言及した。
正吾之心氣 立吾之義理 求吾之心靈『典経』「教運」二-四一。 我が心気を正しくし、我が義理を立て、我が心霊を求めて。(교무부, 「정오지심기 입오지의리 구오지심령 임상제지임의」, 『대순회보』 115, 2010)
『典経』「教運」二-四一。 我が心気を正しくし、我が義理を立て、我が心霊を求めて。(교무부, 「정오지심기 입오지의리 구오지심령 임상제지임의」, 『대순회보』 115, 2010)
人間の心が宝であるという「布喩文」の最後の部分に現れる右の例文は、人間の心の価値が、平常時の心気と義理によって左右されるものであることを示している。これにより、地上天国は、人間が解冤して義理と報恩が消えた無道病の世界に、再び義理と報恩が立つときに到来する。
特に父母と子、すなわち先霊神と子孫の間の解冤-報恩関係が、心の実現、すなわち地上天国実現の鍵である。西洋において理性がすべての判断の基準であるとすれば、東洋における心は孝が判断の基準となる。大巡思想においてもまた、孝は心と生死判断の究極的基準となる。
上帝は大興里で三十枚の洋紙の冊子の前の十五枚ごとに「背恩忘徳万死神 一分明一陽始生(背恩忘德萬死神 一分明一陽始生)」を、後ろの十五枚ごとに「作之不止聖医雄薬 一陰始生(作之不止聖醫雄藥 一陰始生)」を書き、鏡面朱砂と皿一個を置いて光賛に向かって「このことは生死の道を定めることであるから、よく考えて言え」と仰せられると、光賛は「先霊神を仕えることを知らぬ者は生きられぬでしょう」と伺うと、上帝は言葉がなかったが、しばらくして「お前の言葉が可である」と仰せられ、皿を紙に包んで与え、朱砂(朱砂)を付けて冊子の各葉ごとに捺された。「これがすなわち馬牌(馬牌)である」と仰せられた。『典経』「公事」三-九。
『典経』「公事」三-九。
右の例文において、先霊神の報恩は生死判断の基準となる。義理と報恩が生死判断の基準となるのは、天地が人間を選択する基準である心の性能が、義理によって決定されるからである。
西洋思想に心はないが、大巡思想は西洋思想も肯定的に包容する。大巡思想は西洋と同じく成長を肯定する。ただし、大巡思想において西洋と異なる点は、天地神明と先霊神が含まれた成長であるという点である。大巡思想において人間の成長は道通となる。大巡思想の成長において強調されるのは、天地と祖先の恩恵、すなわち報恩である。しかし、大巡思想において道通は道教と異なり、自身の努力のみならず上帝の任意に委ねてこそ至りうる。
任上帝之任意洋洋上帝在上浩浩『典経』「教運」二-四一。 上帝の任意に委ねよ。(교무부, 「정오지심기 입오지의리 구오지심령 임상제지임의」, 『대순회보』 115, 2010)
『典経』「教運」二-四一。 上帝の任意に委ねよ。(교무부, 「정오지심기 입오지의리 구오지심령 임상제지임의」, 『대순회보』 115, 2010)
右の例文は、宝である心が成しうる道通は、人身降世した九天が提示した真法に従って修行していく安心安身にあることを示している。大巡思想において道通は、無為而化の原理と同じく、個人の努力のみならず九天の法理が重要である。
大巡思想の人界観は天地公事の進行とともにその意味が現れたが、天地公事以前の「典教」に現れる。天地人の気運を持つ儒仏仙を通じて天地が人間を成長させるプログラムとして、大巡思想は「典教」を提示している。五百年ごとに聖人が出現するという孟子の言及のように、「典教」においては五百十三年周期で九回にわたり、約四千六百十七余年間、神聖(神聖)および儒仏仙の聖人とその教えが現れ、〈表三〉のように人間を教えてきたという。『典経』「教運」二-二六。
『典経』「教運」二-二六。
〈表三〉 儒仏仙と典教
胞胎(政教合一) 養生(政教分離) 浴帯(政教分離) 冠旺(政教合一) 期間 五一三年×三=一五三九年 五一三年×三=一五三九年 五一三年×三=一五三九年 内容 三皇五帝 堯舜湯王 釈迦孔子イエス 新羅南朝 性理学 教皇 大巡
胞胎(政教合一)
養生(政教分離)
浴帯(政教分離)
冠旺(政教合一)
期間
五一三年×三=一五三九年
五一三年×三=一五三九年
五一三年×三=一五三九年
内容
三皇
五帝
堯舜
湯王
釈迦
孔子
イエス
新羅
南朝
性理学
教皇
大巡
実際、大巡思想は、東洋数学の天文・地理、すなわち河図洛書数学の拡張である紫微斗数の七星 이승재, 『자미두수의 과학적 탐구』, 서울: 미래터, 2017.、密教天文学の二十八宿 야노 미치오, 『밀교 점성술과 수요경』, 서울: 동국대학교 출판부, 2010.、時間関数である二十四節 김태규, 『당신의 때가 있다』, 서울: 더메이커, 2015.、天象分野列車地図の宇宙観と、欲界・色界・無色界の三十六天の宇宙観として解釈されうる 쑨웨이지에, 「동진(東晉)시대부터 송원(宋元)에 이르는 도교의 '삼십육천설(三十六天說)' 발생과정과 층적(層積)」, 『대순종학』 4, 2023.。
이승재, 『자미두수의 과학적 탐구』, 서울: 미래터, 2017.
야노 미치오, 『밀교 점성술과 수요경』, 서울: 동국대학교 출판부, 2010.
김태규, 『당신의 때가 있다』, 서울: 더메이커, 2015.
쑨웨이지에, 「동진(東晉)시대부터 송원(宋元)에 이르는 도교의 '삼십육천설(三十六天說)' 발생과정과 층적(層積)」, 『대순종학』 4, 2023.
東西古今の時空間に現れた理を融合するという大巡思想の三界公事に従い、三界は人間化育のために再整備される。天界公事によって、天象分野列車地図の中心である太乙は太乙天上元君と関係を持ち、太乙を取り囲む七星は七星呪の順序変化によって再整備される。七星を取り囲む二十八宿と二十四節には各神将たちが配置され、相関的思惟が実体化される。後天の三界関係において先天と最も異なる点は、人尊(人尊)・成事在人(成事在人)・道通君子(道通君子)である。고남식, 「선천 천관과 상제의 초월성: 상제의 신도, 삼계대관과 관련하여」 『대순사상논총』, 1999.
고남식, 「선천 천관과 상제의 초월성: 상제의 신도, 삼계대관과 관련하여」 『대순사상논총』, 1999.
これにより、既存宗教の神人関係と異なり、大巡思想においては相互疎通になっている。人間は身体の中に閉じ込められた神であるから、内部の神を目覚めさせて外部の神と疎通させるものであると言いうる。大巡思想の宇宙観と人体観は細部事項が緻密であり、既存宗教の宇宙観と人体観がより詳細かつ体系的に説明される。
百年前に東アジアに入ってきた西洋思想は、東アジア人にとっては実は親しいものであった。西洋は孟子に学んで最初の易姓革命を起こし、 프랑수아 쥴리앙 지음, 허경 옮김, 『맹자와 계몽철학자와의 대화: 도덕의 기초를 세우다』, 한울 아카데미, 2009. 『周易』を通じてライプニッツは原子論の端緒である単子論を立てた。 조셉 니덤 지음, 콜린 로넌 축약, 김영식, 김제관 옮김, 『중국의 과학과 문명: 사상적 배경』, 까치, 1998. 西洋文物が入ってきた当時、東洋の知識人にとって西洋の民主主義と科学は見知らぬものではなかったので、他の文明と異なり受容が非常に容易であった。
프랑수아 쥴리앙 지음, 허경 옮김, 『맹자와 계몽철학자와의 대화: 도덕의 기초를 세우다』, 한울 아카데미, 2009.
조셉 니덤 지음, 콜린 로넌 축약, 김영식, 김제관 옮김, 『중국의 과학과 문명: 사상적 배경』, 까치, 1998.
韓国新宗教において、ヨーロッパ近代文明の東アジア起源が持つ意味は、韓国新宗教が持つ近代性が今日の立場からはポストモダニズム、すなわち現代的近代性であったことを示唆する。近代の主流知識人は西洋の近代性を文字通り受け入れたが、劣悪に見える新宗教の自生的近代性は、むしろ西洋より一歩先んじた近代性であった。韓国新宗教の近代性がポストモダニズム、すなわち現代性であったというもう一つの根拠は、韓国新宗教が大いに流行したのが、現代性が現れた一九八〇年代後半以後であるという点である。노길명, 「광복 이후 한국 신종교운동의 전개와 연구 동향」, 『종교와 문화』 3, 1997
노길명, 「광복 이후 한국 신종교운동의 전개와 연구 동향」, 『종교와 문화』 3, 1997
韓国新宗教は発生当時すでに、西洋の近代性よりは一次元高い近代性を追求していたので、韓国新宗教が日本の弾圧以後に復活するまでには、共産主義崩壊というポストモダニズム的状況あるいは現代的状況を迎えねばならなかった。
成事在人(成事在人)の人界観(人界観)に現れた東西洋人間観(人間観)の再活性化
成事在人(成事在人)の人界観(人界観)に現れた儒仏仙人間観(人間観)の再活性化
大巡思想に現れる人界観は、「典教」に現れるように、儒仏仙の人間観と連結する。大巡思想において儒仏仙は、天が人間を教育する過程であったという。九天が強調される大巡思想において、儒仏仙は天地人の気運と対応する。しかし、大巡思想は実体的な神明を強調するのに対し、既存の儒仏仙は神明の属性的な作用を強調するという大きな差異がある。
既存の仙仏儒の思想を代表する虚無・寂滅・以詔は、大巡思想において各々、天と地の一つの機能を担う。仙・仏・儒の虚無・寂滅・以詔は、十二運星において胞胎・養生・浴帯の次の段階である冠旺へと統合され、大巡思想は冠旺の道である。 김귀만, 「대순사상의 관왕론 연구」, 대진대학교 박사학위논문, 2019. 仙道の虚無と仏道の寂滅、そして儒教の以詔は、性理学が明らかにした心の三つの作用である虚霊(虚霊)・知覚(知覚)・神明(神明)に各々対応する。
김귀만, 「대순사상의 관왕론 연구」, 대진대학교 박사학위논문, 2019.
道傳於夜天開於子 轍環天下虛靈
敎奉於晨地闢於丑 不信看兒足知覺
德布於世人起於寅 腹中八十年神明『典経』「教運」一-六六。 天地(天地)の虚無(虚無)の気運を受けて仙(仙)が胞胎(胞胎)し、天地の寂滅(寂滅)の気運を受けて仏(仏)が育て、天地の以詔(以詔)の気運を受けて儒(儒)が浴帯(浴帯)する。(박용철, 「도통진경 (道通眞境) 에 대한 이해 (理解)」, 『대순사상논총』 5, 1998, p.361)
『典経』「教運」一-六六。 天地(天地)の虚無(虚無)の気運を受けて仙(仙)が胞胎(胞胎)し、天地の寂滅(寂滅)の気運を受けて仏(仏)が育て、天地の以詔(以詔)の気運を受けて儒(儒)が浴帯(浴帯)する。(박용철, 「도통진경 (道通眞境) 에 대한 이해 (理解)」, 『대순사상논총』 5, 1998, p.361)
『心経(心経)』において心は虚霊-知覚-神明の構造を持っているという。 한형조, 「음양과 귀신: 기의 합리론으로 접근하는 초자연적 현상들」, 『국학연구』14, 2009. 大巡思想において虚霊-虚無、知覚-寂滅、神明-以詔の三つの気運は各々天地人に対応する。虚霊・知覚・神明は天地人に対応して、本体・作用・主体として解釈されうる。 최치봉, 「주자학으로 본 대순사상의 마음에 관한 연구: 허령, 지각, 신명을 중심으로」, 『대순사상논총』 31, 2018.
한형조, 「음양과 귀신: 기의 합리론으로 접근하는 초자연적 현상들」, 『국학연구』14, 2009.
최치봉, 「주자학으로 본 대순사상의 마음에 관한 연구: 허령, 지각, 신명을 중심으로」, 『대순사상논총』 31, 2018.
大巡思想において儒仏仙が神明と関係しうる原理は、儒仏仙が各々天地の胞胎・養生・浴帯の気運を持っているからである。
受天地之虛無仙之胞胎
受天地之寂滅佛之養生
受天地之以詔儒之浴帶『典経』「教運」一-六六。 天地(天地)の虚無(虚無)の気運を受けて仙(仙)が胞胎(胞胎)し、天地の寂滅(寂滅)の気運を受けて仏(仏)が育て、天地の以詔(以詔)の気運を受けて儒(儒)が浴帯(浴帯)する。(박용철, 「도통진경 (道通眞境) 에 대한 이해 (理解)」, 『대순사상논총』 5, 1998, p.361)
『典経』「教運」一-六六。 天地(天地)の虚無(虚無)の気運を受けて仙(仙)が胞胎(胞胎)し、天地の寂滅(寂滅)の気運を受けて仏(仏)が育て、天地の以詔(以詔)の気運を受けて儒(儒)が浴帯(浴帯)する。(박용철, 「도통진경 (道通眞境) 에 대한 이해 (理解)」, 『대순사상논총』 5, 1998, p.361)
右の例文は、仙道の虚無という思想が天地の胞胎気運である虚無から出たものであり、仏教の寂滅思想もまた天地の養生気運である寂滅から出たものであることを示している。これは儒教の場合も同一である。
胞胎・養生・浴帯として機能する儒仏仙の原理を通じた大巡思想の神人調化は、東洋思想を記号数学で表示した韓泰東の方法を通じて、より明確に理解しうる。 한태동, 『사유의 흐름』 연세대학교 출판부, 2003. 儒仏仙と西教は、XはXであり−Xは−Xであるという二重肯定の儒教、Xは−Xであり−XはXであるという逆説的な道教、XはXでも−Xでもないという二重否定的な仏教として表現しうる。儒仏仙は、友と仇の関係を定義するにあたって、その特性が明確に現れる。学んで(X)習うので(X)喜ばしく、遠くから友(X)がまた(X)訪ねてきて喜ばしい儒教は、君(X)は君(X)らしくあらねばならず、臣(−X)は臣(−X)らしくあらねばならぬので、友(X)と仇(−X)の関係において、友(X)は友(X)であり仇(−X)は仇(−X)であるという。 子曰; 學而時習之, 不亦說乎, 「학이장」 子對曰 君君臣臣父父子子. (『논어집주』「안연장」, 성백효 편, 전통문화연구회, 1990, p.27, p346) 仇と友を斥力のように分離して推進する儒教に対して、長きにわたる儒教の宿敵であった道教は、道(X)を道(X)と言えば道ではなく(−X)、有(X)は無(−X)であり無(−X)は有(X)であり、最も弱い水(−X)が最も強く(X)、最も醜い(−X)人が最も美人(X)であるので、仇(−X)は友(X)であり友(X)は仇(−X)であるという。 道可道,非常道; 名可名,非常名「1장」; 上善若水.「8장」, 『도덕경』 (김경수, 『노자역주』, 문사철, 2009, p.14, p.108) 和大怨, 必有餘怨; 報怨以德, 安[焉]可以爲善. (김경수, 『노자역주』, 문사철, 2009, p.34) 仇と友を対称に配置する道教に対して、長きにわたる儒教-道教の仲裁者である仏教は、友(X)も仇(−X)もない一切空(空)を主張する。したがって、道教と仏教の虚無と寂滅は−Xで表示される。論理の矛盾を問題解決に適用する事例は、種々の特許開発事例においても現れる。特にトリーズ(TRIZ)は、ロシア語「Teoriya Resheniya Izobretatelskih Zadach」の略字であり、英語でTIPS(Theory of Inventive Problem Solving)とも呼ばれる。トリーズは、すべての発明と革新に共通する原理として、妥協や二者択一のない矛盾解決的な問題解決原理を指す。(김익철, 『창의적 문제해결 天地人』, 영남DPS, 2012; 김호종, 김기정, 강일찬, 조영덕. 『(창의설계) 실용트리즈: 한국형』, 서울: 진샘미디어. 2011. また、儒教の場合は−Xはないが、以詔(以詔)で表示される二重肯定のXは内部的超越として解釈されうる。ポストヒューマン時代は内部的超越を必要とし、 이은선, 「한류와 한국 유교전통 그리고 여성의 살림영성」, 한국문화신학회 편, 『한류로 신학하기』, 동연출판사, 2013. これは東洋女性が内面化した超越が反映された韓流の流行によってよく現れるという。 이은선, 「오늘의 ‘포스트휴먼’(posthuman) 시대에 무엇이 인간을 여전히 인간되게 하는가? - 유교적 페미니즘과 ‘다른 기독론’(the other Christology)-」, 『유교사상문화연구』, 52, 2013 虚無・寂滅に基づいた内部的超越が、ポストヒューマン時代の人間と機械の共進化において鍵となるという。以上、十二運星と儒仏仙の関係は〈表四〉のように整理しうる。『典経』「教運」二-二六。
한태동, 『사유의 흐름』 연세대학교 출판부, 2003.
子曰; 學而時習之, 不亦說乎, 「학이장」 子對曰 君君臣臣父父子子. (『논어집주』「안연장」, 성백효 편, 전통문화연구회, 1990, p.27, p346)
道可道,非常道; 名可名,非常名「1장」; 上善若水.「8장」, 『도덕경』 (김경수, 『노자역주』, 문사철, 2009, p.14, p.108) 和大怨, 必有餘怨; 報怨以德, 安[焉]可以爲善. (김경수, 『노자역주』, 문사철, 2009, p.34)
논리의 모순을 문제해결에 적용하는 사례는 여러 가지 특허 개발 사례에서도 나타난다. 특히 트리즈(TRIZ)는 러시아어 ‘Teoriya Resheniya Izobretatelskih Zadach’의 약자이며, 영어로 TIPS(Theory of Inventive Problem Solving)라고도 불린다. 트리즈는 모든 발명과 혁신에 공통된 원리로서 타협과 양자택일 없는 모순해결적인 문제해결원리를 지칭한다. (김익철, 『창의적 문제해결 天地人』, 영남DPS, 2012; 김호종, 김기정, 강일찬, 조영덕. 『(창의설계) 실용트리즈: 한국형』, 서울: 진샘미디어. 2011.
이은선, 「한류와 한국 유교전통 그리고 여성의 살림영성」, 한국문화신학회 편, 『한류로 신학하기』, 동연출판사, 2013.
이은선, 「오늘의 ‘포스트휴먼’(posthuman) 시대에 무엇이 인간을 여전히 인간되게 하는가? - 유교적 페미니즘과 ‘다른 기독론’(the other Christology)-」, 『유교사상문화연구』, 52, 2013
『典経』「教運」二-二六。
東洋において儒仏仙の推移を各々見てみると、全体的に神明の実体性が消え、属性を強調する方向へと進行してきた。道教の場合、陰陽五行の相関的思惟が外丹(外丹)から内丹(内丹)へと進行し、陰陽五行の気が内面化される。仏教の場合、相関的思惟は、仏と衆生が厳格に区分される小乗仏教から、次第に衆生に仏性が内在するという如来蔵思想の大乗仏教へと進み、結局、衆生がそのまま悟りうるという禅仏教へと発展した。儒教の場合は、漢代以後に陰陽五行体系と儒教が結合した後、性理学の段階において儒教は内面の修行へと発展する。しかし、実体を捨てて属性に偏った儒仏仙は、結局、実体に偏る西洋の脅威に打ち勝てない。
〈表四〉 十二運星と儒仏仙
区分 仙仏儒 十二運星 胞胎 養生 浴帯 特性 造化 形体 範節 論理 Xは−X、−XはX Xは−X、−XはX XはX、−Xは−X 先天宗匠 老子 釈迦 孔子 後天宗匠 水雲 震黙 朱子
区分
仙
仏
儒
十二運星
胞胎
養生
浴帯
特性
造化
形体
範節
論理
Xは−X、
−XはX
Xは−X、
−XはX
XはX、
−Xは−X
先天宗匠
老子
釈迦
孔子
後天宗匠
水雲
震黙
朱子
これに対して、大巡思想においては実体的な神明の概念が現れる。西洋が「神は死んだ」とするなら、大巡思想の天地公事は「天が老いた」と要約される。西洋においては神が死に、人間が神なしに一人で生きねばならぬとすれば、大巡思想において神に該当する天は死んだのではなく、老いただけであり、上帝によって天もまた直され、再定立されうるという。
また、属性的要素を強調する東洋思想に対して、大巡思想においては実体的要素を強調し、罪と罰の原因を人性のみならず天地の構造という実体に置くことによって、罪と罰の概念を表現する。
過ぎた先天の英雄時代は罪によって食べて生きてきたが、後天の聖人時代は善によって食べて生きるであろうから、罪によって食べて生きるのが長久であろうか、善によって食べて生きるのが長久であろうか。いまや後天の衆生をして、善によって食べて生きる度数を組んでおいたのである。『典経』「教法」二-五五。
『典経』「教法」二-五五。
右の例文において「罪によって食べて生きる先天」という表現は、人間の罪が個人の問題のみではないという点を示している。大巡思想の人間観は、属性的人間観を強調する東洋の儒仏仙の人間観と異なり、先天と後天という構造的実体として属性と実体を兼備し、東洋の自生的近代性を内包する。
成事在人(成事在人)の人界観(人界観)に現れた西洋人間観(人間観)の再活性化
西洋において、近代に至って唯一神を中心とする世界観が崩壊すると、続いて神観の崩壊、そして人間の崩壊が発生した。地動説によって崩壊した西洋世界観は、ついには「神は死んだ」に代弁される神観の崩壊へと続き、今日の人間性の終末と生態系崩壊の現実の中で、人間性喪失にまで連結されている。
マテオ・リッチが西教を伝えるとき、西教にもまた陰陽五行のような地水火風という有機体的世界観があったが、天地公事が進行されていた時期、西洋の人間観は地水火風の人間観を廃棄し、デカルト-カントの構成主義的人間観へと代替されていた。
デカルト-カントの構成主義的人間観とは、唯一神が消えた場に、唯一神の場を人間の五感という実体で代替する世界観であった。唯一神が消えて何も信じられない状況において、唯一信じられるのは自身の思考のみであるというデカルトの主張は広く受容され、以後カントに至って、世界は各自がみずから構成するものであるという構成主義世界観へと発展した。
神(神)なき世界の道徳的社会である東洋を模倣する過程において現れたこの構成主義的世界観は、東洋の世界観と異なり、自然を支配し操作する危険な実体的世界観であった。構成主義的世界観は、人間の感覚に従って世界を計量化・道具化し、それまで考えてみたこともない多くの文明の利器と科学技術を考案した。 앨프리드 W. 크로스비 지음, 김병화 옮김, 『수량화 혁명 : 유럽의 패권을 가져온 세계관의 탄생』, 서울: 심산, 2005. 人間はますます神に近づいて見えるなど、このような構成主義は成立初期二百余年間は成功的とのみみなされた。しかし、わずか三百余年も経たぬうちに、西洋は『西欧の没落』を語り始めた。 O. 슈펭글러 지음, 박광순 옮김, 『서구의 몰락』, 파주: 범우사, 2001. 西洋は三百余年間、やみくもに一度も行ったことのない道を走った結果、自分たちの文明が人類の絶滅をもたらし、引き返す道のない行き止まりに突き当たったことを知ったのである。
앨프리드 W. 크로스비 지음, 김병화 옮김, 『수량화 혁명 : 유럽의 패권을 가져온 세계관의 탄생』, 서울: 심산, 2005.
O. 슈펭글러 지음, 박광순 옮김, 『서구의 몰락』, 파주: 범우사, 2001.
当初、西洋が模倣した神(神)なき世界の道徳的社会という東洋の思想は、いざ西洋のような構成主義ではなかった。東洋もまた超越神のない社会において世に対して自己の法則を投影するが、彼らが投影するものは理気論という相関的思惟の理であった。また、東洋思想に現れた神概念もまた、西洋のような超越神ではなかったので、敵対する必要もなかった。
東洋の鬼神論が陰陽や理気のような機械的な神概念であるということは、東西洋の神観が最も差異を示す地点である。東洋の神観は、東洋神観が最も早く現れる殷代の甲骨文に現れた上帝の概念を見ると、西洋と類似した人格神的要素を持っているが、殷代の上帝概念を代替する周代の天概念が登場すると、次第に人格神的な概念が消え、理法神的な特性が現れる。周代の天概念は、戦国時代の天地人三才思想の影響で天神・地祇・人鬼の概念へと発展していき、ついには周易が確立された漢代に至っては陰陽概念へと代替される。機械論的な東洋の鬼神概念は、仏教と道教の人格神的な概念が流行する中で、しばし中国思想史の前面から消える。邵康節が理気概念を鬼神概念と陰陽五行の体用関係で説明してはじめて、鬼神概念に内在する陰陽と理気概念は再び再生される。邵康節の体用関係は、単純な陰陽関係である戦国時代の神人関係よりも、より気化論(気化論)的に具体的であった。 …陰陽などの気(気)の作用によって道(道)の万物生成を説明する解釈方法を、われわれは「気化論」と呼ぶ。「気化論」的解釈は必ず「道」を「気」とみなす。もし(老子の「一生二 二生三」において)「二」を陰陽二気(陰陽氣)とみなすなら、陰陽二気を生んだ「一」は必ず混一未分(混一未分)の「気」であり、「一」を生んだ「道」もまた必ず混元(混元)の気あるいは「元気(元気)」とみなさねばならない。(김백현, 『도가철학연구』, 강릉: 동녘출판기획, 2002.pp.187-188) 気化論は老子とは無関係に始まった荘子の理論から出発し、稷下学派を経た後、董仲舒に至って一次的に儒教的に変えられ、性理学に至って無極と太極にまで連結される。性理学は無極と太極にまで連結された気化論と言いうる。大巡思想の陰陽合徳もまた、道を陰陽の二気として解釈する気化論の要素があり、これは無極と太極にまで連結される。氣化, 指阴阳之气的变化 (한어대사전, 6권 1025)
…陰陽などの気(気)の作用によって道(道)の万物生成を説明する解釈方法を、われわれは「気化論」と呼ぶ。「気化論」的解釈は必ず「道」を「気」とみなす。もし(老子の「一生二 二生三」において)「二」を陰陽二気(陰陽氣)とみなすなら、陰陽二気を生んだ「一」は必ず混一未分(混一未分)の「気」であり、「一」を生んだ「道」もまた必ず混元(混元)の気あるいは「元気(元気)」とみなさねばならない。(김백현, 『도가철학연구』, 강릉: 동녘출판기획, 2002.pp.187-188) 気化論は老子とは無関係に始まった荘子の理論から出発し、稷下学派を経た後、董仲舒に至って一次的に儒教的に変えられ、性理学に至って無極と太極にまで連結される。性理学は無極と太極にまで連結された気化論と言いうる。大巡思想の陰陽合徳もまた、道を陰陽の二気として解釈する気化論の要素があり、これは無極と太極にまで連結される。氣化, 指阴阳之气的变化 (한어대사전, 6권 1025)
儒仏仙が属性論的観点から人間観を説明する概念であるとすれば、調理(調理)と気化(気化)は実体論的立場から人間観を説明する概念となる。大巡思想もまた、人間の調理と神明の気化を人界観の主要特徴として提示する。
天用地用 人用之 調理綱紀 統制乾坤 此之謂造化手段也『典経』「済生」四三。 天用(天用)と地用(地用)と人用(人用)は綱紀(綱紀)を整えることであり、天と地を統制する。これを造化(造化)の手段(手段)と称する。(양무목, 「救援 眞理로서의 陰陽合德과 民主主義」, 『대순사상논총』 2, 1997, pp.175-176)
『典経』「済生」四三。 天用(天用)と地用(地用)と人用(人用)は綱紀(綱紀)を整えることであり、天と地を統制する。これを造化(造化)の手段(手段)と称する。(양무목, 「救援 眞理로서의 陰陽合德과 民主主義」, 『대순사상논총』 2, 1997, pp.175-176)
右の例文において調理(調理)は、中心から乾坤を統制する方法、すなわち人間による土(土)の仲裁を意味する。これは、人間が理(理)を持つ存在として周辺の事物を統制するという易学的観点を反映する。人間が世界の中心において、耳目口鼻を通じて感覚される世界を操作するという西洋構成主義の東洋的場合に該当する。
西洋の構成主義に対応する東洋思想は、共感を通じた人間の矛盾仲裁、すなわち人間の調理と神明の気化であった。人間による土(土)の仲裁という戦国時代の観念は、邵康節の理気概念において人間の調理(調理)という概念へと具体化される。戦国時代の道教文献である抱朴子に、すでに土である人間の存在が現れる。(五行之義 土克水也、갈홍, 『抱朴子內篇』, 北京: 中華書局, 1985, Vol.9. p.320) 邵康節がこれを発見したことを「邵雍天下之物莫不有理的思想(部雍天下之物莫不有理的思想)」と張立文は表現する。(張立文 [외] 지음, 안유경 옮김. 『리의 철학』, 예문서원, 2004, p.115) これをはじめて発見したと言いうる部分である。理(理)を発見しながら、理(理)が人間の心によって調節されうることを邵康節は発見したものとみられる。 邵康節の理気概念に現れた人間による調理概念を見てみると、人間による調理(調理)という邵康節の概念もまた、神と人間の陰陽関係から出発することがわかる。天の道は地においてすべて具現され、地の道は万物においてすべて具現され、万物の道は人においてすべて具現される。人がよく天地万物の道が人においてすべて具現されることを知るようになれば、その次にはよく人の本性をすべて具現しうるようになる。(天之道 盡之于地矣, 天地之道盡之于萬物矣, 天地萬物之道盡之于人矣. 人能知其天地萬物之道所以盡, 天地之道盡所以于人者 然後能盡民也、『황극경세서』, 「관물내편」, 고회민 지음, 곽신환 옮김, 『소강절의 선천역학』, 서울: 예문서원, 2011. pp.195-196) 邵康節当時すでに広く活用されていた神仙術と異なり、邵康節は陰陽五行において、より具体的な神人関係の結合模型を発見し出した。河図洛書の原理を深く研究した邵康節が発見したものは、陰陽五行における土と木火金水の区分であった。
戦国時代の道教文献である抱朴子に、すでに土である人間の存在が現れる。(五行之義 土克水也、갈홍, 『抱朴子內篇』, 北京: 中華書局, 1985, Vol.9. p.320) 邵康節がこれを発見したことを「邵雍天下之物莫不有理的思想(部雍天下之物莫不有理的思想)」と張立文は表現する。(張立文 [외] 지음, 안유경 옮김. 『리의 철학』, 예문서원, 2004, p.115) これをはじめて発見したと言いうる部分である。理(理)を発見しながら、理(理)が人間の心によって調節されうることを邵康節は発見したものとみられる。
天の道は地においてすべて具現され、地の道は万物においてすべて具現され、万物の道は人においてすべて具現される。人がよく天地万物の道が人においてすべて具現されることを知るようになれば、その次にはよく人の本性をすべて具現しうるようになる。(天之道 盡之于地矣, 天地之道盡之于萬物矣, 天地萬物之道盡之于人矣. 人能知其天地萬物之道所以盡, 天地之道盡所以于人者 然後能盡民也、『황극경세서』, 「관물내편」, 고회민 지음, 곽신환 옮김, 『소강절의 선천역학』, 서울: 예문서원, 2011. pp.195-196)
これを具体的に見てみると、邵康節は『典経』と同じく、心の共感と正義を通じて人間が神明を調理しうることを示してくれる。邵康節の神人関係においては、中(中)と土(土)としての人間と、四象(四象)と周辺としての神の配置が現れる。神明の気化を邵康節は次のように表現する。気(気)は神(神)の家であり、体(体)は気の家である。気は六によって変じ、体は四によって分かれる。四を体とし六で変ずるので、神と気が共にある。天は六であり、地は四である。天は気を質(質)とし神(神)を神とし、地は質を質とし気を神とする。気(気)は変(変)じ、形(形)は化(化)する。(『皇極經世書』, 「觀物外篇」, “氣者, 神之宅也, 體者, 氣之宅也. 體四而變六, 兼神與氣也. 氣變必有, 故三百六十也. 氣以六變, 體以四分. 天六地四. 天以氣寫質, 而以神爲神. 地以質爲質, 而以氣爲神. 氣變而形化 形可分, 神不可分 고회민 지음, 곽신환 옮김, 『소강절의 선천역학』, 서울: 예문서원, 2011. p.261) ここで四を体とするというのは元亨利貞を意味し、六を天とするというのは三という真ん中の中を意味すると言いうる。邵康節において調理と気化が意味するものは多様に解釈されうるが、ここでは邵康節が理(理)を元亨利貞とし、気(気)を陰陽五行とし、人間の心を調理の主体としたという点に議論を限定することにする。 人間はすべての理を具備した存在として、耳目口鼻を通じて事物を外形ではなく理として眺める観物によって万物を調理する。邵康節は、事物によって事物を眺める以物観物を通じて、天に偏る自己を避け、人に偏る情を避けうるという。これは調理と気化を語った荘子の心斎と通じる。ここで無に該当する理が生じる。荘子は、心に道が積もって空っぽになった状態を心斎という。(고회민 지음, 곽신환 옮김, 『소강절의 선천역학』, 서울: 예문서원, 2011, pp.258-260) 道教の神仙内丹術は、陰陽という調理する人間と、気化する東洋の機械的な神明をよく表現してくれるという。陽(陽)である人間と陰(陰)である神が合わさった存在である神仙は、すべての陰陽は太極へと合わさるという易(易)思想に従った東洋神人関係の結論である。恐怖の対象であった鬼神に陰陽の合理的属性があることが周易によって明らかにされると、神と人間の関係もまた陰陽関係とみなされ、西洋と異なり東洋において鬼神は人間と結合し、人間が活用しうる存在となる。陰陽概念が定立された以後、秦の始皇帝および数多くの東洋の知識人が神仙術に魅了されたのは、神仙術に内在する陰陽論という合理性に起因すると言いうる。陰陽が神と人間が合わさりうるという大前提であるとすれば、五行は中心である人間と周辺である神が配置される具体的な様相であった。
神明の気化を邵康節は次のように表現する。気(気)は神(神)の家であり、体(体)は気の家である。気は六によって変じ、体は四によって分かれる。四を体とし六で変ずるので、神と気が共にある。天は六であり、地は四である。天は気を質(質)とし神(神)を神とし、地は質を質とし気を神とする。気(気)は変(変)じ、形(形)は化(化)する。(『皇極經世書』, 「觀物外篇」, “氣者, 神之宅也, 體者, 氣之宅也. 體四而變六, 兼神與氣也. 氣變必有, 故三百六十也. 氣以六變, 體以四分. 天六地四. 天以氣寫質, 而以神爲神. 地以質爲質, 而以氣爲神. 氣變而形化 形可分, 神不可分 고회민 지음, 곽신환 옮김, 『소강절의 선천역학』, 서울: 예문서원, 2011. p.261) ここで四を体とするというのは元亨利貞を意味し、六を天とするというのは三という真ん中の中を意味すると言いうる。邵康節において調理と気化が意味するものは多様に解釈されうるが、ここでは邵康節が理(理)を元亨利貞とし、気(気)を陰陽五行とし、人間の心を調理の主体としたという点に議論を限定することにする。
邵康節は、事物によって事物を眺める以物観物を通じて、天に偏る自己を避け、人に偏る情を避けうるという。これは調理と気化を語った荘子の心斎と通じる。ここで無に該当する理が生じる。荘子は、心に道が積もって空っぽになった状態を心斎という。(고회민 지음, 곽신환 옮김, 『소강절의 선천역학』, 서울: 예문서원, 2011, pp.258-260)
西洋近代の構成主義がある前、西洋の地水火風もまた陰陽五行よりも構成主義と類似する点がより多かった。陰陽五行における土と木火金水の関係は、東西洋が明確に差異を示す部分である。西洋の地水火風もまた、東洋の陰陽五行と同じく土のような第五元素エーテルを持っていたが、西洋の第五元素は唯一神のように地水火風とは別個の存在であった。これに比べて、陰陽五行の土は別個の存在でありながらも、木火金水と運行を共にする内在的存在でもあった。邵康節の神人関係は、超越的な西洋の神人関係と、内在的な東洋の神人関係を同時に受容しうる。
調理-気化概念を西欧化したのは、デカルト-カントのみではなかった。ライプニッツは邵康節の哲学を円として解釈し、霊魂不滅説と理気概念の接点を見出したことがある。ライプニッツは「神は万物にあるといい、万物にも神(神)があるという。神は同時に円(円)であり、また円の中心である。なぜなら、神はいかなる所も円の中心にある円だからである。」 이동희, 『라이프니쯔가 만난 중국』, 이학사, 2003, pp.92-93. 西洋の代表的な汎神論者であるスピノザは、気(気)理論の影響を受けて西洋的な多神論を作る。 안종수, 「스피노자와 유학」, 『철학논총』 44(2), 2006, pp.172-173. ショーペンハウアーは周易の気(気)と象(象)を反映して『意志と表象としての世界』を書く。 이영재, 「현대공감이론을 통한 공맹철학의 재조명」, 『정신문화연구』 35(2), 2012, p.427. ニーチェもまた仏教の影響で超人を追求した。 이동희, 「근대 독일 철학자의 대립적 불교 이해와 수용」, 『헤겔연구』 29, 2011. カントからフィヒテ、シェリング、ヘーゲルに至るまで、ある場合は「神」を道徳的存在(カント)とみなしたかと思えば、ある場合は「神」を普遍的自我(フィヒテ、Johann Gottlieb Fichte、一七六二-一八一四)とみなし、またある場合は神を世界を構成する統一的絶対観念(ヘーゲル)とみなした。要するに「理性」を「神」とするこのような傾向こそ、正統的宗教を哲学的宗教に代替するものであり、すべて中国哲学の影響を受けたと言わざるをえないという。 주겸지 지음, 전홍석 옮김, 『중국이 만든 유럽의 근대: 근대 유럽의 중국문화 열풍』, 청계, 2010, p.378.
이동희, 『라이프니쯔가 만난 중국』, 이학사, 2003, pp.92-93.
안종수, 「스피노자와 유학」, 『철학논총』 44(2), 2006, pp.172-173.
이영재, 「현대공감이론을 통한 공맹철학의 재조명」, 『정신문화연구』 35(2), 2012, p.427.
이동희, 「근대 독일 철학자의 대립적 불교 이해와 수용」, 『헤겔연구』 29, 2011.
주겸지 지음, 전홍석 옮김, 『중국이 만든 유럽의 근대: 근대 유럽의 중국문화 열풍』, 청계, 2010, p.378.
現代物理学や仏教の華厳経においても、宇宙・物質・人間は自作(自作)・他作(他作)・共作(共作)・無因作(無因作)ではなく、原因が与えられた結果として生じた現象であり、現代物理学が明らかにしている物質の創生・消滅は素粒子とエネルギーの性質であって、華厳でいう本性(本性)の性起(性起)であることが明らかになるという。星々の生死、無機質から有機質への変化、一切の法界が重重無尽に縁起したことを示している。 허정화, 「화엄사상과 현대 물리학의 비교연구」, 동국대학교 석사학위논문, 2003.
허정화, 「화엄사상과 현대 물리학의 비교연구」, 동국대학교 석사학위논문, 2003.
理気(理気)概念の始まりとなった『黄帝内経』は諸子百家がすべて含まれており、 在〈内经〉一书中,可以看到道家、墨家、名家、阴阳家等学派的思想痕迹,这是不可否认的事实。徐仪明 ,『性理与岐黄』 ,中国社会科学出版社, 1997, p.23. 性理学の発展した理(理)概念は仏教華厳経の影響を受けたという。今日の比較哲学において理気概念は、記号学、トミズム、スピノザ主義と、それに影響を受けた後期フランス哲学とも広範囲に比較研究されている。 소병선, 『朱子學과 Thomism의 哲學的 比較』: 韓國學中央硏究院 박사학위논문, 2005;박정진, 『철학의 선물 선물의 철학』, 서울: 소나무, 2012; 이정우, 김시천, 김교빈 외, 『기학의 모험: 1, 동서양 철학자, 유배된 氣의 부활을 말하다』,서울: 들녘, 2004.
在〈内经〉一书中,可以看到道家、墨家、名家、阴阳家等学派的思想痕迹,这是不可否认的
事实。徐仪明 ,『性理与岐黄』 ,中国社会科学出版社, 1997, p.23.
소병선, 『朱子學과 Thomism의 哲學的 比較』: 韓國學中央硏究院 박사학위논문, 2005;박정진, 『철학의 선물 선물의 철학』, 서울: 소나무, 2012; 이정우, 김시천, 김교빈 외, 『기학의 모험: 1, 동서양 철학자, 유배된 氣의 부활을 말하다』,서울: 들녘, 2004.
玉(玉)の筋目を意味する理(理)概念が、仏教の華厳経において太極の意味までを現すようになったのは、玉(玉)が持つ権力の意味と、ブラフマン-アートマンの合一というインドのバラモン教の概念が結合して現れたものと理解されうる。玉(玉)は数多くの労働力を必要とするので、玉(玉)自体がすでに権力の象徴となりうるし、宇宙的存在全体であるブラフマンと個別的存在であるアートマンが結合することは、「各具太極 統体太極」という太極の意味、部分と全体が同じ性格を現すという有機体科学の意味とも一致するからである。
華厳経は、実際に仏教が衰退しインドのバラモン教が蘇る六世紀頃に現れる経典である。気(気)の条理(条理)という概念から始まった理(理)概念は、『荘子(荘子)』に現れた養生(養生)としての調理(調理)概念として独立した後、華厳経の理(理)概念が翻訳された当時、イスラムとヒンドゥー教に現れたプラトン思想的側面が、邵康節の理(理)概念形成に影響を与えたと言いうる。イスラムのタウヒード(Tawḥīd)は「一つにする」または「一つであることを宣言する、あるいは認める」の動名詞形であり、神の唯一性(唯一性)、不可分性、絶対性、唯一の実在であることを認めることであるという。タウヒードは新プラトン主義のような流出説の一変形態であり、華厳経の事事無礙(事事无涯)と理事無礙(理事无涯)に影響を与えたものとみられるという。 松本耿郎, 「イスラームにおける宗教間対話の理論(宗教間対話の思想--歴史的諸相とそれらの対話,パネル,<特集>第68回学術大会紀要)」, 『宗教研究』 83-4, 日本宗教学会, 2010, pp.180-81, 1272-73. 理(理)概念の起源と関連したインドとイスラム、中国の相互連関性は、理(理)概念の起源である河図洛書の伏羲氏の起源を、古代三機能体系の時代へと遡及しうる余地を示している。 미르치아 엘리아데 지음, 최종성, 김재현 옮김, 『세계종교사상사2: 고타마 붓다에서부터 기독교의 승리까지』 , 이학사, 2005, p.299, pp.490-491.
松本耿郎, 「イスラームにおける宗教間対話の理論(宗教間対話の思想--歴史的諸相とそれらの対話,パネル,<特集>第68回学術大会紀要)」, 『宗教研究』 83-4, 日本宗教学会, 2010, pp.180-81, 1272-73.
미르치아 엘리아데 지음, 최종성, 김재현 옮김, 『세계종교사상사2: 고타마 붓다에서부터 기독교의 승리까지』 , 이학사, 2005, p.299, pp.490-491.
天地報恩(天地報恩)の天人(天人)関係に現れた東西洋天人関係の再活性化
大巡思想において人間と天の関係は、天地報恩へと集約される。人間が地上天国を実現しうる理由は、人間が心を通じて報恩しうる存在だからである。
道通天地報恩『典経』「預示」八八、道通天地報恩。
『典経』「預示」八八、道通天地報恩。
右の例文において、人間が道通をなすのは、道教と異なり人間の能力のためではなく、天地に報恩するからである。人間は天地の最霊者であるとされるので、天地の恩恵を知ることができ、人間の天地報恩は人間存在の理由と言いうる。
人間が報恩せねばならぬものは、具体的に天地の誠敬信と関係する。人間を化育する天地の運行が、神明の至極なる誠敬信によるものであることを忘れてきたがゆえに、神明に対する報恩が人間の生死の重要な要素となる。
生(生)と寿命(寿命)と福禄(福禄)は天地(天地)の恩恵(恩恵)であるから、誠(誠)・敬(敬)・信(信)によって天地(天地)報恩(報恩)の大義(大義)を立てて人道(人道)を尽くし、 『大巡真理会要覧』 p.20.
『大巡真理会要覧』 p.20.
右の例文に見られるように、人間の寿命・福禄は天地の誠敬信の結果であるから、人間の倫理道徳の核心理由となる。これにより、人間は天地の恩恵に対する報恩に努めねばならず、また人間の報恩と、それに従う道通は、天地の化育において核心となる。これにより大巡思想においては、六十余年間の祖先の努力によって魂と魄が結合した子孫として人間は生まれることができるようになり、 『典経』「教法」二-三六。 魂と魄が結合するがゆえに、欲望の根源であり、すべての人間能力の基盤となりうる心を人間は持つようになるという。
『典経』「教法」二-三六。
至寶卽吾之心靈也 心靈通則鬼神可與酬酢 萬物可與俱序『典経』「教運」二-四一。 至極なる宝はすなわち我が心霊である。心霊が通ずれば鬼神と酬酌しうるし、万物と秩序を共にしうるのである。(교무부, 「포유문」, 『대순회보』 184, 2016)
『典経』「教運」二-四一。 至極なる宝はすなわち我が心霊である。心霊が通ずれば鬼神と酬酌しうるし、万物と秩序を共にしうるのである。(교무부, 「포유문」, 『대순회보』 184, 2016)
右の例文において、人間が天地の恩恵に報恩することを知れば、人間の心は鬼神と酬酌しうる通路となる。大巡思想において天地は、人間に無限の恩恵を施す存在となる。しかし、人間の怨恨が天地にまで連結されてはいるが、人間が一心の修行をすれば、天地に道通によって報恩する存在となる。
人間の道通と、それに伴う開闢のためには、天地人に対する審判があったりもする。これにより上帝は、直接人間の身を借りて生まれ、実際に非常に苦痛であることを訴える。
上帝はある日、従徒たちに「私はこの公事を引き受けようとしたのではない。天地神明が集まって、上帝でなければ天地を正すことができぬと言うので、苦しいこと限りないが、どうしようもなく引き受けることになったのである」と仰せられた。『典経』「公事」一-九。
『典経』「公事」一-九。
上帝は甑山で勉強されていて、時折、山の麓にある泉の向こうで泣かれたりもしたが、あるとき父君が飯を持って甑峰に登る途中、その光景を見た。『典経』「行録」二-九。
『典経』「行録」二-九。
上帝は壁に向かって横になられたかと思うと、突然、従徒たちに向かって仰せられた。「いまや全世界が滅亡することになったが、すべて救い出すことは難しいので、どうして痛ましくないことがあろうか」と仰せられ、大いに悲しまれた。『典経』「行録」五-二四。
『典経』「行録」五-二四。
右の例文において、九天は天地公事をなさねばならぬ苦しみを表現する。九天は、東学思想を誤解して死ぬことになった数多くの怨魂の解冤もまた、公事として処決する。
上帝は十二月に入って種々の公事を終えられ、逆度(逆度)を調整する公事に着手された。京石・光賛・乃成は大興里へ行き、元一は申京元の家へ、亨烈と自賢は銅谷へ発った。上帝は残っていた文公信・黄応鍾・申京守らに向かって「京石は誠(誠)敬(敬)信(信)が至極であって、別に用いてみようかと思っていたが、みずから請うことであるから致し方ない」と仰せられ、また「本来、東学が輔国安民(輔国安民)を主張したのは、後天の事を叫んだことにすぎなかったが、心はそれぞれ王侯将相(王侯将相)を望み、所願を成し遂げられずに連行されて死んだ者が数万名である。怨恨が蒼天に満ちたので、その神明たちをそのまま放っておけば、後天には逆度(逆度)にかかって政事が乱れることになるので、その神明たちの解冤の頭目を定めようとしているところであるが、京石が十二諸国を語るので、これは自請である。その父親が東学の重鎮として捕らえられて死に、彼もまた東学の総代をしたので、いまから東学神明たちをすべて京石に付けて送ったから、この座から王侯将相(王侯将相)の解冤がなされるであろう」と仰せられ、紙に文を書かれながら外人の出入りを禁じ、「後日に見よ。金銭の消費が多くなるであろうし、人も甲午年より多くなるであろう。解いておいてこそ後天に何の差し障りもないのである」と言葉を結ばれた。『典経』「公事」二-一九。
『典経』「公事」二-一九。
右の例文において、実体としての九天が天地報恩においてまず強調するのは、森羅万象の解冤となる。また、解冤を通じてのみ道通を成しうるので、解冤を非常に重視する。先天の世において解決しえなかった解冤を、九天は天地・天人関係の最優先解決課題として選定する。
無上(無上)な智慧(智慧)と無辺(無辺)の徳化(徳化)と偉大(偉大)な権能(権能)の所有主(所有主)であられ、歴史的(歴史的)大宗教家(大宗教家)であられる姜甑山(姜甑山)聖師(聖師)は、九天大元造化主神(九天大元造化主神)として三界大権(三界大権)を主宰(主宰)され、天下(天下)を大巡(大巡)されてから、人世(人世)に大降(大降)され、常道(常道)を失った天地度数(天地度数)を整理(整理)され、後天(後天)の無窮(無窮)な仙境(仙境)の運路(運路)を開いて地上天国(地上天国)を建設(建設)し、否劫(否劫)に積もった神明(神明)と災劫(災劫)に陥った世界蒼生(世界蒼生)を広く救おうとして巡回(巡回)周遊(周遊)され、大公事(大公事)を行(行)われたので、陰陽合徳(陰陽合徳) 神人調化(神人調化) 解冤相生(解冤相生)の大道(大道)の真理(真理)によって、神人依導(神人依導)の理法(理法)で解冤(解冤)を主(爲主)とし、天地公事(天地公事)を報恩(報恩)で終結(終結)されたので、解冤(解冤)報恩(報恩)の両原理(両原理)である道理(道理)によって、万古(万古)に積もったすべての怨鬱(寃鬱)が解け、世界(世界)が相克(相克)のない道化楽園(道化楽園)へとなるであろうから、これがまさに大巡(大巡)された真理(真理)なのである。
右の例文において「万古(万古)に積もったすべての怨鬱(寃鬱)が解け」という部分は、九天の天地公事の趣旨が解冤にあり、解冤が近代性の鍵であるということである。また、甑山の解冤と報恩公事によって、三界の森羅万象は後天仙境となるのである。この解冤と報恩が円滑に進行されることが天地の成功であり、森羅万象の解冤と報恩が成し遂げられることもまた、甑山の権能の下で成し遂げられる。
大巡思想において、三界の相克化は三界錯乱として、三界の相生は天地成功として現れる。冥府の錯乱が大きな問題であるため、天地公事を通じて、この神明と人間の否劫によって生じた冥府の錯乱を防ぐことから、天人関係・地人関係を復権し、再活性化する。
人界観の場合、天界と地界のすべての問題の発生と解決が、人間を通じて同時に成し遂げられるという見解である。天地が成功するために人間を必要とする時期であり、 『典経』「預示」三〇。 天地成功とは 『典経』「預示」三〇。 天人関係の相生によって成し遂げられるものである。
『典経』「預示」三〇。
『典経』「預示」三〇。
地上神仙(地上神仙)の地人(地人)関係に現れた東西洋地人関係の再活性化
大巡思想において人間と地の関係は、地上神仙と関連する。大巡思想において人間の成長と世界発展の鍵は神人調化であり、神人調化の方法が陰陽合徳である。大巡思想において神人調化が可能な理由は、神と人間がともに陰陽という太極の原理を共通して持っており、互いに待對する立場を理解すれば、同じ原理であるがゆえに調化されうるからである。神人の調化を通じて世界は解冤相生と道通真境へと成長していくというのが、大巡思想が提示する後天関連の人間観である。
地上神仙となりうる大巡思想において、地と関係した人間の地位は宗旨へと集約される。大巡思想において宇宙は元亨利貞[理]として無限重畳循環[気]し、人間は共感[心]によって仲裁するというこの論文の考察が正しいならば、大巡思想において宇宙における人間の地位は、天地を成功させる存在である。 『典経』「預示」三〇。 天地を成功させねばならぬ宇宙における人間の地位は、大巡思想においては再び共感の方法に従って、宗旨のように四つに分かれる。無限重畳循環[理気]と共感[心]は、大巡思想に現れた宇宙における人間の地位に対する共通した原理となる。大巡思想に現れた人間の地位について見てみることにする。
『典経』「預示」三〇。
まず陰陽合徳と関連して見れば、人間は時空間を通じて天地と共感せねばならぬので、時間の動きを知る知人(知人)となりうる。 『典経』「公事」一-三〇、『典経』「教運」一-三〇、『典経』「預示」一-二一。 人は時を知り、時に合わせて変わることを知れば、生気(生気)が継続して生じる。 『典経』「行録」五-三八。 人の思い一つで天地の一気が変わるほどに、人間は心を欺かない無自欺を通じて、身と心の陰陽合徳をなしうる。人間は陰陽合徳という共感を通じて、弦望晦朔の理によって自由に動く春夏秋冬の気運をよく統制しうる。宇宙は無限重畳循環するので、陰陽が理であり、理が経緯となる。 『大巡指針』 p.18
『典経』「公事」一-三〇、『典経』「教運」一-三〇、『典経』「預示」一-二一。
『典経』「行録」五-三八。
『大巡指針』 p.18
次に神人調化と関連して見れば、人間は唯一、神が持たぬ肉体で苦痛を受けうる心を持った存在である。大巡思想において神明(神明)は元亨利貞の気(気)として解釈されうる。人の心は神明が出入りする場所であり、 『典経』「行録」三-四四。 理定心法(理定心法)のように、理は心を定めることができる。 『典経』「教運」二-三三; 고남식, 「이정심법과 수심의 궁극적 성향」, 『대순사상논총』 13, 2001. 安心安身(安心安身)を通じて心を潜心(潜心)させ、心が潜心されれば、宇宙(宇宙)という家の中に住む女性のように心が安らかになって、神と共感しうるようになる。 고남식, 「선천 천관과 상제의 초월성: 상제의 신도, 삼계대권과 관련하여」, 『대순사상논총』 8, 1999, pp.562-563 修道人は呪文修練を通じて無限重畳循環する宇宙を仲裁しうるし、誠敬信を通じて理(理)によって神と共感(共感)・感応(感応)する。 황태연, 「공자의 공감적 무위·현세주의와 서구 관용사상의 동아시아적 기원 上」, 『한국학』 36(2), 2013, pp.73-74.
『典経』「行録」三-四四。
『典経』「教運」二-三三; 고남식, 「이정심법과 수심의 궁극적 성향」, 『대순사상논총』 13, 2001.
고남식, 「선천 천관과 상제의 초월성: 상제의 신도, 삼계대권과 관련하여」, 『대순사상논총』 8, 1999, pp.562-563
황태연, 「공자의 공감적 무위·현세주의와 서구 관용사상의 동아시아적 기원 上」, 『한국학』 36(2), 2013, pp.73-74.
次に解冤相生と関連して見れば、人間は唯一、怨を理によって解きうる存在である。理解(理解)とは、怨(寃)は必ず理を通じて解ける(解)という意味とみなしうるので、人間は理を通じて怨を解きうる。大巡思想においては、解冤を象徴する五仙囲碁の壁画を「理解」と表現している。解冤は相生の自然科学的基礎となる。(박용철, 「해원상생의 실현에 대한 고찰」, 『대순사상논총』 4(-), 1998, pp.213-241) 人間は共感して仲裁する存在であるから、人間の陰陽を調節できなければ、怨は人間を病ませ、 『典経』「行録」五-三八; 조영숙, 「『東醫寶鑑』 宇宙本體論에 관한 硏究」, 『도교문화연구』 33, 2010,p.141; 김미림, 「『동의보감』의 양생관 연구」, 외국어대학교 박사학위논문, 2009, pp.163-165. 人とは言えない。 『典経』「済生」四三。 それゆえ、東洋と西洋にも道通神があるならば、医通は朝鮮にのみある。 『典経』「行録」五-三八。 人間は中心において宇宙の病を治して循環させる存在である。宇宙は無限重畳循環するので、一人の抱いた怨恨によっても天下の気運が塞がれる。
大巡思想においては、解冤を象徴する五仙囲碁の壁画を「理解」と表現している。解冤は相生の自然科学的基礎となる。(박용철, 「해원상생의 실현에 대한 고찰」, 『대순사상논총』 4(-), 1998, pp.213-241)
『典経』「行録」五-三八; 조영숙, 「『東醫寶鑑』 宇宙本體論에 관한 硏究」, 『도교문화연구』 33, 2010,p.141; 김미림, 「『동의보감』의 양생관 연구」, 외국어대학교 박사학위논문, 2009, pp.163-165.
『典経』「済生」四三。
『典経』「行録」五-三八。
以上に見てきた大巡思想の三界観再定立に現れた自生的近代性は、大きく三つに要約される。第一に、三界全体の可変性、特に天界の可変性である。大巡思想は、三界観の崩壊を三界観自体の問題ではなく、三界の問題とみなした。「古びた天」に代表される大巡思想の天界観は、東西洋を通じて歴史時期の間ずっと至尊の存在であった天に、老いうる存在であるという限界を付与し、天界観の崩壊を再定立した。大巡思想において三界は、既存の東洋思想における不変の、君臨する三界ではなく、上帝によって変わりうる可変的な三界である。
第二に、三界における地界の地位上昇である。東西洋を通じて天は高めたが、地を天ほどに高めねばならぬと強調した思想は、東西洋の歴史を通じて甑山を信仰の対象とする宗教がほぼ唯一である。大巡思想は、地を高める陰陽合徳を宗旨の最初の語句として掲げることによって、地界の地位上昇を、甑山信仰の宗教団体の中でも最も明確に提示した。
第三に、三界の互換性である。大巡思想において三界は、全体的に変化し内部比重が流動的であるが、媒介をする人間を中心として相互に互換される。大巡思想は、共通の構造と原理によって発生した天地人が、怨恨によって相互に疎通できず、多くの災いが起こったという。相互交流が塞がれた理由は、地は天に比べて冷遇され、人間は弱い存在として原則なく利用されたことにある。 최원혁, 「동학사상과 대순사상의 자생적 근대성 비교 연구」, 『Studies on Humanities and Social Sciences (SHSC)』 6(1), 2024. 九天の人身降世以後に現れた大巡思想の天観・地観・人間観の変化は、天地人の可変性と恒常性、互換性として現れる。
최원혁, 「동학사상과 대순사상의 자생적 근대성 비교 연구」, 『Studies on Humanities and Social Sciences (SHSC)』 6(1), 2024.