Ⅱ · 2. 中国式道教資本主義と自由至上主義的財富観

儒教資本主義やプロテスタンティズムのように、儒教・西教・仏教に比べて、道教は資本主義と関連して学界の論争ブームを巻き起こすことはできなかったが、最も資本主義に近く、中国人に影響の大きかった思想といえる。[194]今日、共産主義中国で最も人気のある宗教は道教であり、実際、物質を最優先価値とする現代中国は、[195]儒教国家というよりは道教国家に近いといえる。[196]儒教に反対した毛沢東は道教を相対的に優遇し、共産主義を常に道教と比較して強調してきており、[197]鄧小平の改革開放は道教の柔軟さと関連がある。[198]道教は、中国人の理財(理財)に明るい属性と極めて符合する特性を示してきた。現代の道教寺院の神は、財物を司る神明で満ちている。[199]中国の道教志向的な経済体制は中国式道教資本主義と呼びうる。[200]

中国式道教資本主義を日常生活に近い部分から考察すると、歴史・重点経済活動・教理・社会観・経済活動態度・市場観・国家観・価値理論・問題点・差異点・改善点などの順に、自由至上主義および新古典派経済学と類似した財富観を持っていることが現れる。[201]

まず道教の東西洋交流の歴史を考察すると、道教はマテオ・リッチによって間接的に初めてヨーロッパに紹介された後、[202]経済理論では見えざる手を主張したアダム・スミス、限界効用論を主張した新古典学派に影響を与え、経済倫理という側面では自由至上主義に影響を与えた。[203]ウェーバーによって資本主義の起源とみなされた清教徒主義を創始したカルヴァンが住んだジュネーヴは、当時マルコ・ポーロなどの中国情報が流行する商業地域であり、資本主義の本格的発展となった職業召命説・予定説・高利貸の承認は、中国で道教の勧善説(勧善説)や財富観の影響を受けて施行されていたものである。[204]救済の予定の証明としてのカルヴァンの財富観は、「神の恩寵としての財物」という道教的財物観に通じるところがあり、道教はプロテスタンティズムの財富観と極めて類似している。[205]腎臓(腎臓)が身体の銀行のように万物を濾過して新たな活力を肝(肝)に送るように、経済においても、未来の期待のなかで財産を貯蓄する財富観が経済発展の核心といえる。[206]ウェーバーが述べたのとは異なり、資本主義を発生させたカルヴァン主義は、実は西教と正反対の思想から発生した。[207]西教は原則として博愛を主張するため、財富観的な行為は博愛と対立するといえる。[208]ウェーバーは西洋資本主義の起源をカルヴァンの予定説とみたが、カルヴァンの禁欲主義は、アダム・スミスの道教的資本主義思想と結合した後にようやく本格的に作動した。[209]

カルヴァンは、すべてを分け与える西教の博愛精神に反して、中国やインドのように、当時イスラムでも違法と規定した高利貸を認めて貯蓄の基盤を整える。カルヴァンは、必要な商品の完全な取引を妨げる独占を、殺人と同様のものとみる。カルヴァンの主張に従って、当時ジュネーヴ市は、生活必需品に属するワイン・パン・肉などについて価格統制を実施したという。[210]当時の宗教改革家たちは、おおむね全般的な破綻と蔓延した失職に脅かされている商業都市を運営していた。[211]カルヴァンの政策によって、ジュネーヴは一世代のうちに、取るに足らない地方都市から国際的な商業・財政中心地へと浮上した。[212]大陸とは異なり個人主義が発達してルターよりカルヴァンの影響力が相対的に大きかった英国のアダム・スミスは、カルヴァンの思想を継承し、ケネーから学んだ老子と孔子の思想に支えられて、見えざる手の無為自然を活用する。[213]

思想史的に、道教の小国寡民[214]思想は孔子と孟子の自由放任的経済思想に影響を与え、再びこれがカルヴァンやアダム・スミスらへとつながったといえる。[215]自由至上主義と限界効用学派の思想的起源はアダム・スミスの『国富論』であるが、『国富(国富)論』はその題目からして道教の富国(富国)強兵策から来ており、『国富論』の代表的理論である自由放任が、道教の無為を含む「無為之治」を翻訳した語から出たためである。(脚注70)

教理的な側面でも、貯蓄は現実を否定して未来への期待により希望を懸けるため、「Xは–X」という循環的論理を持つ道教の経済思想となる。小国寡民、水の哲学は代表的な貯蓄思想である。道教は、生産—流通—分配—貯蓄の四側面において、貯蓄を基盤に循環を促進しようとする。

道教の重点経済活動を考察すると、生産—流通—分配—貯蓄という経済サイクルにおいて、道教と関連する経済分野はとりわけ貯蓄といえる。東洋思想が西洋思想に比べて相対的に内向性を志向し、[216]東洋思想のうちでも儒教が「進む」宗教であるなら道教は「還る」宗教であるとするとき、道教は老子から無(無)・止(止)を強調してきており、これは経済サイクルにおいて貯蓄に相当するといえる。曹操から受けた財物を一つも使わずに集めておき、劉備へ還るときに財物をすべて分け与えた義理の神・関雲長は、道教において財物の神となり、[217]道教の核心教理である無為自然は、経済活動において貯蓄となった。[218]道教信者は勧善書(勧善書)と功過格(功過格)を作り、自らの善行がどれほど未来の財富を蓄えたかを確認した。[219]

道教は、積極的な活動よりも消極的な観望の知恵を強調している。貯蓄は、分配がすべて終わり、明日を期して、あらゆるエネルギーを蓄えている状態であり、五行では「水」のごとく、色では黒色のごとくといえる。実際、道教は「水の宗教」と呼ばれるほど水の知恵を強調し、黒色を象徴色とする。[220]

道教の国家観を考察すると、理想的国家を最小限の政府とみる小国寡民(小国寡民[221])思想として現れる。小国寡民(小国寡民)は、無政府主義のように、効用中心の最小限の国として現れる。黄台淵はアダム・スミスが儒教の無為而治を学んだとしたが、[222]儒教の無為而治もまた道教から学んだものといえる。道教は、心身関係においても最小限のエネルギーを使う無病長寿を祈願し、元祖といえる老子は富国強兵と民衆の財富増加に集中する。

社会観を考察すると、道教は政治社会的な活動を人為的な努力として否定し、経済的な活動だけで万物を貯蓄を通じて循環させる役割を果たすため、自由至上主義的財富観と共通点を持っている。自由至上主義は、経済倫理において共同体より個人、正義より自由を優先する経済倫理といえる。自由至上主義的経済倫理は、自由を制限するいかなる社会制度も不可であり、経済は個人の貨幣使用に従って見えざる手によって自然に発展する。

平等観を考察すると、道教は、法の前の平等や市場の前の平等のように、道(道)の前の絶対平等を主張する。儒教が共同体に立脚した大同(大同)の平等思想を展開したとすれば、荘子は道の前での絶対平等[223]あるいは天生平等説(天生平等説)を追求したという。荘子の絶対平等は、自由至上主義の「法の前の絶対平等」と類似している。

社会制度と士農工商について言えば、道教はまた技術・工(工)を強調する。道教の教理は気功術から始まり、神との合一のための呪文・縮地法・錬金術などあらゆる技術で武装している。道教が生まれた南部中国は、また、尭・舜の時代に土木を担当した共工(工共)族が住んでいた地域であった。

分配と関連して最も重要な価値理論を考察すると、道教は実利を尊重するため、道教的な価値理論は新古典派の限界効用理論と類似しているといえる。限界効用論[224]は、限界財である最後の財の効用である限界効用が価値を決定するとする価値論である。たとえば、同じリンゴでも、腹が空いているときに食べるリンゴが、満腹のときに食べるリンゴよりはるかに効用が大きいように、価値とは、労働価値論のように需要者と無関係に一方的に決定されるのではなく、需要者によって決定されるとする価値論である。需要者が空腹であればリンゴの価値も上がり、需要者が満腹であればリンゴの価値が下がる。とすれば、最も価値を高めうる方法は、リンゴを中心にみれば、最も空腹な人の順に食べることが最も価値を高めることである。商品が最も価値あるように動くなら、最も空腹な人の順に循環するというのが、限界効用論に隠蔽されている循環の原理であり、「資源の効率的配分」という限界効用論の長所といえる。また分配は、限界効用の分だけ分配されることを正義とする。限界効用論において分配は、商品に投入された労働の価値によって受け取るのではなく、「我が感じる効用」の分だけ受け取る主観的なものとなるため、分配の不平等を主張するのが難しくなる。

限界効用論において財貨が最も効率的に動くのは、最も効用が急ぐ順に物が消費される場合である。限界効用論は財貨の交換から始まり、商品の循環で締めくくられる。空腹な人は、自分が持っている他の財貨を交換してリンゴを購入するため、交換で始まって最も効率的な循環をするのである。限界効用論においても、循環が多くなり速くなるほど価値も上がるといえるため、実際に価値が生じるのは効用ではなく循環であることが分かる。

限界効用論が実現される場が流通過程であるとすれば、発生する場は道教の貯蓄である。与えられた資源の下で最善の選択を決定する限界効用均等の法則は、自由競争の理論のように、前提条件である経済循環が可能なときに妥当な概念である。[225]流通は、火のように、水が集めておいたものを撒くだけである。限界効用が均等になるには、最も空腹な人にパンが回ればよい。したがって限界効用もまた制限的な循環を担っている。

道教は財富観を強調したが、儒教の威勢に押されて資本主義へ発達しなかった。ウェーバーは、プロテスタンティズムが持つ予定説による肯定的財富観が儒教では欠如しており、中国では資本主義が発達しなかったとしたが、[226]道教はプロテスタンティズムより財富を強調する。ただ、道教が儒教に抑圧され、財富が蓄積されると再び略奪されることによって、資本主義に至らなかった。

今日、自由至上主義はノージック[227]、新古典派経済学はフリードマン[228]、ハイエク[229]などに代表される。

道教の自由至上主義的財富観の長所と短所を考察すると、長所としては、限界効用均等の法則を通じて経済を循環させる道教の財富観は、与えられた現実への適応はよくするが、与えられた枠を果敢に変えることはできないという限界がある。適応のみを強調する冷徹な自由至上主義社会では、階層の高下を問わず、賭博資本主義に陥る危険がある。

また、制度が不備な場合、道教が現実逃避思想へ流れたように、財富観が容易に堕落しうるという点である。実際、カルヴァンの財富観に従って資本を蓄積させた西洋の財富観は、賭博資本主義へと変わる。ウェーバーが述べたように、禁欲的労働を強調するプロテスタンティズムの肯定的財富観は、ニーチェが宣言した「神の死」と、共産主義の失敗に象徴される「人間の死」の後、誇示的消費と仮想的満足を追求する「賭博資本主義」的財富観へと大きく変化する。

科学が発達すると人間についての秘密が明かされ、いまや人間は神を捨てて自分のために金を稼ぐようになった。「神は死んだ」に代表されるニーチェの言葉のように、神が死んだ世界において、貨幣は「救済」の徴とはなりえず、ただ他人の欲望に対する徴となる。貨幣によって欲望が均質化された資本主義において、貨幣を持っているということは、他の人の欲望をすべて持っているということになる。貨幣は、神と人間の循環に対する徴であったのが、人と人との間の循環に対する約束の徴となった。

共産主義という計画経済の失敗は、人間の理想に対する信頼の喪失によって、他人の欲望としての貨幣に対する信頼も崩れることになった。いまや貨幣は、神のための救済の徴でもなく、他人のための利他主義的欲望の徴でもない、単に他人の欲望を模倣する徴となった。貨幣が人類の理想の徴としての機能を喪失すると、貨幣は賭博資本主義の象徴となった。貨幣はいまや貨幣のための貨幣となってその循環性を喪失し、それ自体が宗教となった。人間が、宗教的損失の状況においても宗教の教主を怨まないように、現代人は財貨をすべて失っても資本主義を怨まなくなった。[230]現代資本主義の財富観は、循環性を喪失した賭博資本主義の財富観となった。

〈表2.4〉道教資本主義と自由至上主義比較表

道教資本主義自由至上主義/新古典派経済学
影響史マテオ・リッチ、カルヴァンに影響現代主流経済学に影響
理論Xは–X、現実否定・未来準備自由尊重
重点経済活動貯蓄・財富観・財物崇拝・器局主義[231]私有財産の増殖、予定と人類理想の徴
国家観小国寡民、太平実現最小政府、警察国家
社会観人為排撃政府干渉排除
平等観道の前の平等、天生平等論法/市場の前の平等
制度観最小主義市場強調、商業強調
価値理論実利崇拝、上善若水的適応効用価値、適応を通じた効率
代表思想家老子、荘子カルヴァン、アダム・スミス、ハイエク、フリードマン
長所経済動機の誘発資源の効率的配分
問題点社会制度否定による虚無主義・現実逃避過度な自由尊重による共同体破壊、神の死による賭博/カジノ資本主義化
差異点循環/自由のうち循環優位循環/自由のうち自由優位
問題解決方案過不足の警戒自律に対する責任の承認、良心の回復

道教資本主義と自由至上主義の財富観の差異点と関連して問題点を考察すると、道教資本主義と自由至上主義はともに貯蓄と自由を大切にする財富観を持つが、究極的に、道教資本主義は自然が優先であるため自由より自然の循環を優先し、自由至上主義は人間が優先であるため循環より人間の利益を優先する。現代の自由至上主義は道教の影響を受けて資本主義の発展に大きく寄与したが、自然の循環すら無視して人間の利益を追求し、今日の大きな危機を呼び起こしたため、自由至上主義には「自らの責任を否定せずに自由を追求する循環の回復」が、道教資本主義には「過不足の警戒」が緊急に求められる。ここまで財富観と関連して、道教資本主義に現れた自由至上主義/新古典派経済学的特性を要約すると〈表2.4〉のとおりである。

注释

  1. [194]魯迅は、中国の根は道教にあり、これによって史書を読めば数多くの問題が自然に解決するとした。(황원민, 「세가지 도교 경제윤리」,『동서사상 제8집』, 동서사상연구소, 2010, 237쪽)
  2. [195]中国人の営利衝動は世人の周知するところであり、中国社会のあらゆる階級に遍在する富に対する積極的評価は、世界のどの国にも比較できないほど積極的である。(김정계, 「막스베버의 종교윤리와 현대 자본주의」, 『산경연구』 Vol.15 No.-, 昌原大學校 産業經濟硏究所, 1997, 297쪽)
  3. [196]中国の道教は唯一、教団道教として成立し、中国の農民抗争と軌を同じくしてきた。(와덕충, 서순장『중국종교사』, 조성을 역, 한울아카데미, 1996, 40~42쪽, 158~159쪽, 327~332쪽)今日、台湾・香港に残っている宗教は儒教ではなく道教である。台湾には道教寺院が日本の神社のように道の真ん中にところどころ配置されている。大きく見れば毛沢東の長征もまた中国道教の農民抗争伝統と軌を同じくするともいうとき、今日の中国の経済体制は道教資本主義と呼びうる。
  4. [197]ルネ・トマスは、中国の共産主義者がいまや孔子より老子をより信頼するという事実を正しく指摘するという。毛沢東は、共産主義の弁証法的世界観が中国で古代ヨーロッパより早く発生したとする。毛沢東の唯物弁証法は、古典的な中国陰陽説の弁証法と密接に関連しているように見える。毛沢東はマルクス主義の中国的あるいはアジア的形態を創造したのである。(양재혁, 「중국고전의 순환적 도와 모택동의 변증법」, 『現代中國硏究』, Vol.- No.-, 성균관대학교 현대중국연구소, 1992, 8-23쪽)
  5. [198]道教が共産主義にすら好評を受けているのは、中国の現実的で楽天的な性格とも関係があるが、修養書という常識とは異なり、何よりも国家の論理を最も明確にしているためである。(강신주, 2004, 105~113쪽)鄧小平の黒猫白猫論は、道教の実用主義的思考方式と関係が深い。
  6. [199]道教は始めからずっとシャーマニズムと混用され、民間で実用的で神秘的な方便として広く使用されてきており、その宗教性すら今日は世俗化してしまったのが実情である。道教は普通、中国の民族宗教という。(안관수, 「베버-테제에서 본 노자의 환경사회학의 해석학적 접근」, 『교육연구』Vol.- No.18, 원광대학교 교육문제연구소, 1999, 36쪽)
  7. [200]今日、大衆媒体のなかの道教は、東洋思想の神秘さとして商品化されていく趨勢があり、道教の本質的な姿を褪せさせる傾向があるという。(윤찬원, 「문명비판론을 중심으로 본 현대의 노자-도교 담론」, 『동아시아 문화와 사상8권』, 동아시아문화포럼, 2002, 24~25쪽)
  8. [201]経済正義は、平等観・社会観・正義観・組織の四要素になっているという。各宗教の経済的特性は経済正義と関連して考察しうる。
  9. [202]マテオ・リッチによる道教の影響は、主に宋明理学を通じた方法といえる。同じマテオ・リッチの資料を用いながらも、英国は主に古代孔孟儒学の経験論的思想を選好したとすれば、ヨーロッパ大陸は道家と仏教の影響を受けた宋明理学の理性主義を選好した。道教の影響は、したがって宋儒理学を通じて間接的に伝達されたといえる。(전홍석, 「근대 유럽 계몽주의에 대한 송유이학(宋儒理學)의 영향과 그 문화 철학적 의미」, 『동양철학연구』 Vol.57 No.-, 동양철학연구회, 2009, 304쪽)
  10. [203]経済と関連した現代倫理学は、方法論において個人/全体、志向価値において善(効用)/正(制度)を基準に、個人主義に該当するノージックの自由至上主義、ロールズの社会契約主義、方法論的全体主義を志向する功利主義とマッキンタイアの共同体主義に分けうるとき、道教は効用よりは個人の自由を重視する自由至上主義に近いといえる。(시오노야 유이치, 2002, 47~81쪽)
  11. [204]カルヴァンと同時代の人物で、経験論の創始者といわれるベーコンは、羅針盤・火薬・印刷術を極讃したが、それが中国に起源したかは知らなかった。14世紀から16世紀の300年にわたるヨーロッパのルネサンスは、中国文明がヨーロッパに伝播される時期と一致する。ルネサンス時代にイスラム文明と中国文明の合として始まったヨーロッパ文明は、マテオ・リッチの死後、中国の精神文明が入ってきて本格的に始まる。(황태연, 『공자와 세계』1권, 412~420쪽)
  12. [205]世界文化のうちでも最も肯定的財富観を持つ道教では、カルヴァンの思想のように、財富を増やすための倫理性を強調する。道教の代表的著書である『太上感応篇』は「禍福に門なし、ただ人が招き入れる」とし、道教の代表的倫理指針書である『功過格』は、人が日々の生活を反省してその善悪を日記式に記録することをいう。一年が過ぎれば、学生の成績を出すように、その年の統計を出す。(양창삼, 「도교와 한국 기독교와의 관계성에 대한 연구」,『민족과 문화』, Vol.2 No.-, 漢陽大學校 民族學硏究所, 1994, 408쪽)『太上感応篇』は宋代以後に出現した経典で、以後、儒仏仙三教を区分するのが難しいほど混在するようになる。今日、三教が混融したのは宋(宋)以後に起因する。清教徒の代表的人物である米国のベンジャミン・フランクリンは、実際に自分の善行と悪行を日記帳に記録し、今日のフランクリン・ダイアリーの嚆矢となった。
  13. [206]ウェーバーによれば、同じ肯定的財富観であっても、中国的財富観と清教徒の財富観は全く反対であった。西教は富の追求を猛烈に攻撃した伝統があり、清教徒でも富は贖罪の確証のための内面の組織化にすぎなかった。一方、中国の富は人格の象徴でもあった。(김정계, 「막스베버의 종교윤리와 현대 자본주의」, 『산경연구』 Vol.15 No.-, 昌原大學校 産業經濟硏究所, 1997, 302~303쪽)ウェーバーが西教と資本主義の関係についての分析で示したように、資本主義は道教のような肯定的財富観によって資本の蓄積が始まった。ウェーバーは、技術も立ち遅れ資源も相対的に不足していた西洋でなぜ資本主義が先に発展したのかという原因を探すうち、財産を救済の象徴とみなした西教宗教改革の中心であるカルヴァンのプロテスタンティズムの勤倹精神に注目するようになった。カトリックから分離して出てきたキリスト教は、教皇の権威を代替しうる救済の徴を探す方法が急務であり、その徴として社会構成員すべてが同意しうる物質的財貨が採択された。ひとたび財貨が救済の徴として登場すると、財貨に対する生産および技術は急速度に拡大された。資本主義初期の経済思想は、生産を拡大して救済の徴である財貨を蓄積することであった。財貨は商品を生産するために投与された労働となり、労働は救済のための行為として神聖視された。財貨は、個人的私欲のための手段というより、救済の証明のための禁欲的蓄積であった。
  14. [207]カルヴァンとルターの宗教改革は、論理的には一次方程式から二次方程式への転換であり、これは東洋思想との類似性とみることができる。宗教改革以前には、十戒を守れば罪が赦される一次的な構造であったとすれば、宗教改革以後は、「罪が赦された」という救済を自ら再びせねばならない二次的な構造となったのである。ルターの思想を儒教と比較すれば、ルターは肯定的二重構造(X²)を所有しているが、否定的二重構造(~X)²にはいまだ進めていない。X²(ルター)⊂X²∪(~X)²(儒教)。ルターは過ちを犯したことを過ちと考えはしたが、過ちを悔いないときを罪とみなす境地には入れなかった。(한태동, 2003, 146쪽)
  15. [208]カルヴァン主義とルター主義はエディプス構造を持つという。フロイトにとって息子はルター・カルヴァンの罪人、母は全知全能の神、父は律法を象徴する。(「라깡과 루터: 정체화와 노예의지 비교」,『한국조직신학논총』Vol.16 No.-, 한국조직신학회, 2006, 40쪽)
  16. [209]レーヴィットは、啓蒙主義とカルヴァン主義をいずれも西教終末論の世俗化とみなす。啓蒙主義は表面では西教を批判したが、形式的には西教の終末論、内容的にはギリシアの世俗主義を結合したという。終末論と啓蒙主義は、終末論的形式と決定論を共有する。西教の「恩寵」は哲学の「理性」に似て、西教の贖罪は哲学の啓蒙に似ていた。終末論的モデルの世俗化は「理性の道具化」と「極端な快楽主義」を招いた。(이상익, 『역사철학과 역학사상』, 성균관대학교출판부, 1996, 93~94쪽)終末論を世俗化したカルヴァン主義は、啓蒙主義と同じ脈絡とみることができるが、中国の影響で世俗化が加速された。終末論は循環論の特定脈絡を見たものとみなされうる。ウェーバーが同じ世俗主義であってもキリスト教と中国を異なるものと見たのは終末論の影響であり、近代科学もまた終末論的前提が敷かれていることを表す。
  17. [210]황의서, 「루터, 칼빈, 웨슬리의 경제윤리」, 『신앙과 학문 16권 2집』, 기독교 학문 연구회, 2011, 293~294쪽.
  18. [211]김용환, 「막스베버의 종교·경제윤리」, 『호서문화연구12집』, 충북대학교 중원문화연구소, 1994, 155쪽.
  19. [212]이은선, 「칼빈과 청교도의 경제윤리」, 『한국개혁신학논문집 6권1집』, 한국개혁신학회, 1999, 142쪽.
  20. [213]ウェーバーの言う清教徒は、英国の清教徒(puritan)をいうとみるとき、カルヴァン思想は英国への影響が最も大きかったといえる。(이오갑,「칼빈500년」,『신학사상145집』, 한국신학연구소, 2009, 85쪽)
  21. [214]小国寡民と無為は、今日まで影響が持続している。今日、ガタリの生態哲学とヨーロッパ哲学を代表するドゥルーズの逃走線と通じるといえる。小国寡民と無為の結果である空(空)と公案(公案)は、器官なき身体と脱領土化とみなされる。(정형철, 「들뢰즈와 가타리의 노마디즘과 동양적 사유의 방식」,『한국비교문학학회』Vol.38 No.-, 한국비교문화학회, 2006, 176~194쪽)
  22. [215]カルヴァンとルターの宗教改革思想は、明の鄭和の艦隊がイタリアに到着して印刷術と紙・地図を渡した影響を否認できない。(개빈 멘지스, 『1434』, 21세기북스, 2010, 341~364쪽)カルヴァンの宗教改革は印刷術の発展とともに起こり、カルヴァンが基盤とした工商業は中国の鄭和から学んでいった会計原理と商業技術であった。(존.M.홉슨,『서구 문명은 동양에서 시작되었다』, 정경옥 역, 에코리브르, 2005, 160~165쪽)中国人に学んだ商業技術で金を稼ぐプロテスタントたちは、既存の信徒とは異なり、中国から伝わってきた印刷術と紙で作った自分の日記帳に日記を書きながら、自分の救済を確認せねばならなかった。(제레미 리프킨, 『공감의 시대』, 민음사, 2010, 329~337쪽)これもまた中国の士人の姿と類似している。
  23. [216]科学的な検証を志向する西洋科学は客観的検証を志向するため外向的であるとすれば、東洋は極めて内面的であるといえる。東洋の外向的思想家としては北宋の張載を挙げることができるが、その体系的な哲学は、のちにその弟子である程顥・程頤からも酷い批判を受けた。(위잉스, 『동양적 가치의 재발견』, 김병환 역, 동아시아, 2007, 90~91쪽)
  24. [217]道教では、関羽が関聖帝君という尊号以外に伏魔大帝(伏魔大帝)といって地獄神(地獄神)の長になっており、漢の高祖・秦の始皇帝など生前に帝王であった者がかえって彼の部下格に回されている。我が地では、いつからか分からないが財神(財神)として祀られ、とりわけ商人に崇奉された。(차계환, 「조선후기의 도교사상」,『동양학24집』, 단국대학교 동양학연구소, 1994, 362쪽)
  25. [218]中国道教の展開様相は、大きく三つで、識字層によって追求された神仙思想、教団的体系を備えた教団道教、民衆に流布された民間道教である。民間道教はとりわけ財物を大切にした。中世末期から、善い事をすれば財物を集めうるという勧善書(勧善書)が広く流布される。(김낙필, 「조선후기 민간도교의 윤리사상」,『한국문화12권』, 서울대학교 한국문화연구소, 1991, 427~435쪽)
  26. [219]차계환, 「조선후기의 도교사상」, 『동양학24집』, 단국대학교 동양학연구소, 1994, 362쪽
  27. [220]道徳経は黒さ「玄」を神秘に表現している。(谷神不死、是謂玄牝、玄牝之門、是謂天地根——谷の神霊さが死なないこと、これを「黒き牝」という。黒き牝の門、これを「天地の根」という。道徳経6章、『노자역주』, 김경수 편, 문사철, 2009)
  28. [221]小国寡民、使有什佰之器而不用、使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之、使人復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、隣国相望、鶏犬之声相聞、民至老死不相往来
  29. [222]『論語』「衛霊公章」子曰 無爲而治者 其舜也與 夫何爲哉 恭己正南面而已矣(孔子曰く、為すことなくして治める者は舜である。何を為したか。己を恭しくして真っ直ぐ南面していただけである。)(マコーミック「司馬遷とアダム・スミス」, 85쪽, 『공자와 세계 2권』, 863~864쪽)
  30. [223]万物を絶対平等にする道は、ない所がないという(道無所不在説)。道は、道の観点から万物を見るのではなく、万物の観点から把握するためであるという。(조민환, 「장자의 평등사상」, 『도교학 연구 13권』, 한국도교학회, 1994, 183~184쪽)
  31. [224]限界効用論は、アダム・スミス—リカード—マルクスへつながる労働価値論がマルクスの共産主義理論へ発展すると、それに対応するために資本主義陣営が開発した価値論で、現代資本主義の公式価値論であり、経済学原論と中高校の社会教科書の最初のページを飾る代表理論である。限界効用論もまた他の理論と同様に、互いに比較・批判して受け入れてこそその価値が分かる。限界効用論において限界とは最後の財をいう。たとえば、10個のリンゴを食べたとするとき、限界財は9番目のリンゴではなくまさに10番目のそのリンゴをいい、したがって限界効用とは9番目のリンゴを食べる効用ではなく10番目のリンゴを食べる効用をいう。
  32. [225]アロー(Arrow)の社会選択理論も結局、道徳的制約があるとき最善の選択が可能であることを示す。(시오노야 유이치, 2002, 315~317쪽)自由至上主義資本主義は、老子のように消極主義的資本主義にすぎない。自由至上主義は危険・情報不確実性・非対称性などに対する理解が不足している。(같은 책, 402~403쪽)
  33. [226]ウェーバー・ポランニー・マルクスなどは、韓国の一部の改新教主義者のように、没歴史的で反科学的なヨーロッパ中心主義歴史観を主張してきており、いまだその余波が学界の主流として残っているのが、現代経済の危機を直視することを妨げる要素である。とりわけマックス・ウェーバーを指目する理由は、そのなかでも最も心を込めてヨーロッパ中心主義を構築した人物であるためである。(안드레 군터 프랑크(1998) 32쪽, 46쪽, 66쪽)
  34. [227]ノージックはロールズとともに、倫理学に経済学のゲーム理論を適用して倫理学を科学化させた代表的人物に数えられる。ロールズが社会契約主義をゲーム理論で論証して、1970年代に消えゆきつつあった社会正義理論の爆発的拡張に火種を点けたとすれば、ロールズに対する自由至上主義陣営の科学的対応者として現れた人がノージックである。ノージックはロールズの批判を数学的に防御して自由至上主義の合理性を論証した。(조나산 울프, 『(로버트 노직)자유주의 정치철학』, 장동익 역, 철학과 현실사, 2006, 99쪽)
  35. [228]ノーベル経済学賞受賞者であるフリードマンは、今日の主流経済学を代表するシカゴ学派マネタリズムの代表的理論家であり、ケインズ主義に対する代表的な批判家である。恐慌と景気循環の問題を労働者の低所得問題とみたケインズとは異なり、フリードマンは経済循環と恐慌の問題はただ通貨量の問題にすぎないとみる。(박주호, 『화폐금융분석』, 학문사, 1999, 72쪽)
  36. [229]ノーベル経済学賞受賞者であるハイエクは代表的な市場主義者である。ハイエクは、社会主義が宣伝煽動によって発展していく途中で資本主義は対応しないことによって価値が疑われたとし、資本主義の本質は自由への宣伝煽動であるとして市場主義理論を率いた。(기 소르망, 『20세기를 움직인 사상가들』, 강위석 역, 한국경제신문사, 2003, 292쪽)
  37. [230]강신주, 2009, 160~173쪽
  38. [231]器局(器局)主義とは、大きなものを得るために小さなものを捨てる態度で、民間道教が財物を崇拝した一方、老荘系列の道教は大きなもののために小さなものを貪らなかったが、結局、財富を大切にする点は同じである。(심백강, 「동양고전에 있어 경제사상」, 『정신문화연구 36호』, 한국학중앙연구원, 1989)