第三章 第3節:永世不忘(永世不忘)の人間観

永世不忘(永世不忘)の人間観の自生的近代性

西洋の成長論的(成長論的)人間観

下から上へと世界を眺める西洋の天観・地観・人間観において、進化する天地のなかで人間は成長を志向する。実体性を志向する西洋の伝統において、人間は、イデアの理想を地上の質料に実現するプロメテウスのような苦闘する人間から、原罪によって天から失楽園し、地上から再び天へ昇るために救済に集中する人間であった。神が消え去った近代においては、天地と分離した単独的存在としての西洋の人間は、分化した世界のなかでひとり成功を追求する現象学的成長論、すなわち実存的人間となる。

天地との密接な関係のなかで天地の化育に同参しなければならないという義務感から憂患意識が先立つ東洋の人間とは異なり、西洋では天地と関連した憂患意識よりも、天の上の天と直接関連した実存意識が優先した。西洋の原罪思想もまた、東洋の性悪説とは異なり、人間が自然に対して道具的に操作することを禁じはしなかった。

西洋の成長論的人間観は、神話学と心理学において研究が進められてきた。神話学において、西洋の成長論は英雄の循環のように個人の成長に集中して研究されてきた。キャンベルのような学者たちは、世界の神話全体を英雄神話として解釈することもある。東洋は西洋とは異なり、同じ成長といっても、胞胎養生浴帯冠旺衰病死葬という天地化育の天地之用、すなわち天地の成長を優先する。『典経』「済生」43。西洋の心理学においては、これまで西洋の近代的人間観が精神分析や行動主義のように否定的人間観に偏ってきたとして、成長論的人間観によってさらに成長を強調する。東洋の心理学者たちは、人間のすべての欲望を性的欲求の変換とみなす精神分析や、物質的欲望とみなす行動主義のような西洋の人間観は、東洋に比して自己肯定的な人間観であると評価する。조긍호, 󰡔유학 심리학의 체계 Ⅲ:, 인간 삶의 목표 추구와 보편심리학의 꿈󰡕, 서울: 학지사, 2021.

『典経』「済生」43。

조긍호, 󰡔유학 심리학의 체계 Ⅲ:, 인간 삶의 목표 추구와 보편심리학의 꿈󰡕, 서울: 학지사, 2021.

西洋の人間観は、成長論的人間観と、その反映である最近のポストヒューマニズム的人間観に集中して表現される。成長論的人間観とは、人間の欲望を否定的にみて技術志向的な接近をとった行動主義および精神分析学に対して、人間の欲望を肯定的にみて内面の精神を主として接近した実存主義的心理理論の人間観である。成長論的人間観によれば、人間の欲望は否定的なものではなく、人間にはただ多様な欲求があるのみである。成長論的人間観は、人間の欲求が段階的に潜在しているということを前提として、こうした欲求が下級(下級)のものから高級のものへと発展的に現れるという成長的側面を強調した人間観(人間観)理論の総称である。成長論的人間観は、性悪説に基づく技術中心的な問題解決を志向する古典的人間観に対して、性善説に基づく自己実現的な問題解決を志向する人間観を提示した。こうした成長理論に含まれる人間観理論としては、1940年代半ばに登場し、のちに成長理論の基盤をなしたマズロー(A.H. Maslow)の欲求段階理論をはじめ、1960年代に提示されたマクレガー(D. McGregor)のX理論・Y理論、ハーズバーグ(F. Herzberg)の二要因理論(二要因理論)、オルポート(G. W. Allport)の特質主義理論、アージリス(C. Argyris)の未成熟・成熟理論などを挙げることができる。

ポストヒューマニズムは第四次産業革命を基盤としており、第四次産業革命は成長論的人間観のいう自己実現段階の産業革命として解釈されることもある。이민화, 『4차 산업혁명으로 가는 길』, 창조경제연구회, 2016. さらに、実存主義がまさにポストヒューマンの時代に至って実現され、韓国の新宗教が説いてきた未来展望と一致するともいわれる。전홍석,「근대 한국민족종교에 대한 세계문명사적 조명-문명(종교)기축적 접근을 통한 신종교 연구의 새로운 방향과 방법론 제안」, 『동아시아고대학』 54, 2019.

이민화, 『4차 산업혁명으로 가는 길』, 창조경제연구회, 2016.

전홍석,「근대 한국민족종교에 대한 세계문명사적 조명-문명(종교)기축적 접근을 통한 신종교 연구의 새로운 방향과 방법론 제안」, 『동아시아고대학』 54, 2019.

従来の性悪説的な心理学的人間観に対比して、成長論的人間観が提示した肯定的な人間観は、マズローの場合、特に欲望・成長・世界に対する肯定としてそれぞれ現れる。第一に欲望の場合、マズローは、下位の欲求がすべて充足された後に現れる自己実現欲求は、自己向上(self-enhancement)のための個人の渇望であり、潜在力として有しているすべてのものを実現しようとする欲望であるとして、欲望を肯定する。

第二に成長について肯定する。マズローは、欲求の階層において下位段階の四つの欲求、すなわち生理・安全・帰属・尊敬などの「下位」欲求は、いずれも何らかの外的条件が欠乏して現れる「欠乏動機(deficiency motive)」であるとみた。こうした欠乏動機の作用は、おおむね「緊張減少モデル(tension-reduction model)」に従う。これに比して、最上位の自己実現欲求は、自己の成長を図ろうとする「成長動機」(growth motives)である。これは「それ自体が欠乏状態から生じるというよりは存在(being)そのものから生じ、緊張減少よりは緊張増加を追求する。したがってこれを「存在動機」(being motives)」と呼ぶが、これは「個人の潜在力を実現しようとする先天的衝動と関連した遠隔の目標を追求し、経験を広げることによって人生を豊かにし、そうすることで人生の喜びを増大させるという。조긍호, 『유학 심리학의 체계 Ⅲ, 인간 삶의 목표 추구와 보편심리학의 꿈』, 서울: 학지사, 2021, p.320.

조긍호, 『유학 심리학의 체계 Ⅲ, 인간 삶의 목표 추구와 보편심리학의 꿈』, 서울: 학지사, 2021, p.320.

第三に世界に対する肯定である。マズローは、当時アメリカ心理学の第一勢力である精神分析が重視する人間の精神病理的側面や、第二勢力である行動主義心理学(behaviorism)が重視する機械的側面と還元論的・決定論的世界観を批判し、統一的存在(integrated being)である人間の主体性と全体性に基づく個人の潜在的可能性(human potentiality)を尊重しながら自己実現を追求した。マズローは、人間の人間らしい本性を追求し理解し、人間の成長と幸福に寄与する世界を志向する心理学理論として、当時の若者たちの偶像となった。정인석, 『트랜스퍼스널 심리학: 동서 예지의 통합과 자기초월의 패러다임』, 서울: 대왕사, 1998.

정인석, 『트랜스퍼스널 심리학: 동서 예지의 통합과 자기초월의 패러다임』, 서울: 대왕사, 1998.

マズローが主張した人間の肯定的属性は、ポストヒューマンが代替しうる人間の属性とはきわめて相反する属性であるという。ポストヒューマンが人間社会にきわめて衝撃的である理由は、これまで機械が代わることのできない人間を代表する属性とみなされてきた理性、そのなかでも道具的理性に該当する計算能力において、機械が人間を凌駕したためであった。김봉률, 「자동화사회와 불교, 그리고 섹슈얼리티」, 『새한영어영문학회 2022년도 가을학술발표회 논문집』, 2022. しかし、人工知能を研究すればするほど、人間には人工知能とは正反対の知能があり、人間が得意とすることは人工知能が苦手とし、人間が苦手とすることは人工知能が得意とするという、モラベックのパラドックスが現れた。한스 모라벡, 『마음의 아이들: 로봇과 인공지능의 미래』 ,김영사, 2011. このモラベックのパラドックスは、批判的ポストヒューマン主義者であるサール(John Searle)の中国語の部屋の論証を通じて、チューリング・テストを通過して知能であると判明した人工知能でさえ、ポストヒューマンの有する知能を人間の知能とみなしがたいという限界を露わにした。이명의, 『신경과학철학: 뇌중심중의에서 체화주의로』, 아카넷, 2022, p.95.

김봉률, 「자동화사회와 불교, 그리고 섹슈얼리티」, 『새한영어영문학회 2022년도 가을학술발표회 논문집』, 2022.

한스 모라벡, 『마음의 아이들: 로봇과 인공지능의 미래』 ,김영사, 2011.

이명의, 『신경과학철학: 뇌중심중의에서 체화주의로』, 아카넷, 2022, p.95.

ポストヒューマンの時代においては、いまや人間は人間が機械よりも得意とする知能に集中してこそ共進化が可能となるのであり、そのうち代表的なものが人間の成長知能として指目されたのである。奇しくも、東洋の神人関係もまた、有機体的な人間と機械論的な神明という特性を有している。人間が成長知能を機械とは異なる形で有することになったのは、人間は長い歳月にわたって生存が目標であったため、人間の知能は特定部分に特化した弱い人工知能ではなく、あらゆる分野にわたって遅々としながらも均等に発展した汎用人工知能の属性を有していたからである。박찬국, 「인간과 인공지능의 미래: 인간과 인공지능의 존재론」, 『인공지능과 새로운 규범』, 한국포스트휴먼연구소 편, 아카넷, 2018, p.123. 象徴と共同体を形成し、自己発展をみずから行うことのできる成長知能が、人間のみの知能として注目されたのである。実に人間は、実存主義的な存在の努力を数万年にわたって行ってきており、その過程で人工知能の真似のできない数多くの象徴を通じて知能を開発し、自己実現の動機を有することになった肯定的存在であった。박성현, 『상징의 탄생: 600만 년에 걸친 초(超) 사회성 진화』, 서울: 심볼리쿠스, 2017. 人間はついに、集団から個人へと自己実現を遂げることになった。박성현, 『개인이라 불리는 기적』, 서울: 심볼리쿠스, 2011. マズローの四段階の成長過程は、大巡思想の冠旺と東学思想の胞胎とに比較されうる。

박찬국, 「인간과 인공지능의 미래: 인간과 인공지능의 존재론」, 『인공지능과 새로운 규범』, 한국포스트휴먼연구소 편, 아카넷, 2018, p.123.

박성현, 『상징의 탄생: 600만 년에 걸친 초(超) 사회성 진화』, 서울: 심볼리쿠스, 2017.

박성현, 『개인이라 불리는 기적』, 서울: 심볼리쿠스, 2011.

西洋の成長論的人間観は、近代の科学技術の発展を牽引し、多様な社会的発展を成し遂げたが、天地を排除した独断的な人間の発展は、逆説的に天地の背信によって人類を尽滅の境地に陥らせた。欲望の手綱は解き放たれたが、手綱を再び縛る方法のない西洋の人間観は、新たな代案的近代性を必要とすることになった。

東洋の接化的(接化的)人間観

天の上の天を強調する西洋とは異なり、東洋は天の内の天、すなわち内在天の天地と天地の間を結ぶ人間の役割を強調する。これゆえ東洋の人間観は、相関的思惟が際立つ接化的特性を有する。東洋の人間観を理解させる相関的思惟については、金相日以後、沈光鉉らによって現代哲学的な後続研究が行われた。東洋の接化的人間観は、相関的思惟の属性上、韓中日のうち韓国の美学的特徴において際立って現れる。최광진, 『한국의 미학』, 고양: 미술문화, 2015,pp.111-115.; 大巡思想の美学的特徴は、崇高美・徳輝美・調和美に区分されることもある。(이지영, 『대순사상의 미학적 연구: 숭고미, 덕휘미, 조화미를 중심으로』, 대진대학교 박사학위논문. 2024)

최광진, 『한국의 미학』, 고양: 미술문화, 2015,pp.111-115.; 大巡思想の美学的特徴は、崇高美・徳輝美・調和美に区分されることもある。(이지영, 『대순사상의 미학적 연구: 숭고미, 덕휘미, 조화미를 중심으로』, 대진대학교 박사학위논문. 2024)

沈光鉉は、韓国文化の特徴をフラクタルと定義し、西洋のポストモダニズムと詳細に比較したうえで、韓国文化全般に適用した。沈光鉉は、今日、同一の構造が反復されるという東洋の科学がフラクタル構造として一言で表現されているといい、심광현, 『프랙탈』, 현실문화연구, 2005. 韓流が世界の人々の支持を受けているのも、すべての文化が陰陽五行に基づく世界においてもっともフラクタルな特性を有するためであるともいう。심광현, 『흥한민국』, 현실문화연구, 2005, pp.303-311. フラクタルな特性に、東洋の接化的人間観がよく現れている。

심광현, 『프랙탈』, 현실문화연구, 2005.

심광현, 『흥한민국』, 현실문화연구, 2005, pp.303-311.

フラクタル理論とは、部分を意味するフラクタル(fractal)において、全体の構造が部分の構造に現れるという意味で、宇宙はコンピュータのようにいかに複雑であっても、陰陽のような0と1の反復であるように、同一の構造の反復であるという理論である。天の陰陽五行構造が地にもあり、人間にも同じくあって、人間の陰陽五行構造を知れば地も知り、天の原理も知ることができるという東洋の陰陽五行が、典型的なフラクタル理論である。これを東洋では理致と表現してきたのであり、人間は天と地の理致を同時に有しているがゆえに、人間は天地の化育に同参することができ、また同参しなければならない存在であるというのが、東洋の接化的人間観である。

東洋の接化的人間観が人間の能力を高くみるという点は、西洋の成長論的人間観と共通するが、異なるのは、東洋では天地が人間の能力を実現すべき対象なのではなく、反対に人間の能力こそ天地の贈り物であり、人間は天地に恩恵を返さなければならない存在であるという点である。東洋の天地は質料と形相ではなく、万物を化育する同化と凝縮であったがゆえに、東洋の知識人にとっては、天地の化育の努力に合致せず、同参することができないという憂患意識が、個人の成長という実存意識よりも優先した。

西洋の近代化に従って、東洋の接化的人間観は、東洋の知識人にとってさえも前近代的な啓蒙対象として見下されたが、東西洋の交流に従って、今日では多様に再評価されている。まず、東洋の相関的思惟を西洋の認知心理学の次元にまで拡大した研究者は崔仁哲である。崔仁哲は、ニスベットとの共同研究によって東洋の思惟の相関的認識を認知心理学的に証明し、この分野の学問を打ち立てた。彼らによって、東洋と西洋が集団性と個人性によって代表されるということが、今日では心理学的実験によっても立証された。리처드 니스벳 저, 최인철 역, 『생각의 지도』, 서울: 김영사, 2004, pp.83-106.

리처드 니스벳 저, 최인철 역, 『생각의 지도』, 서울: 김영사, 2004, pp.83-106.

崔仁哲の研究を東洋心理学にまで実際に拡大した者は趙肯鎬である。趙肯鎬は、全体から部分を把握する東洋の認知体系が人間の心理的倫理観にも影響を及ぼし、東洋とりわけ儒教においては、西洋とは異なる儒学心理学の体系を作り上げたことを示した。조긍호, 󰡔유학 심리학의 체계 Ⅲ.3, 인간 삶의 목표 추구와 보편심리학의 꿈󰡕, 서울: 학지사, 2021. 実際、東洋では専門性よりは全人的中庸を強調してきた。하지영, 김태수, 「대순사상에 나타난『중용(中庸)』의 종교교육적 함의」, 『宗敎敎育學硏究』 73, 2023.

조긍호, 󰡔유학 심리학의 체계 Ⅲ.3, 인간 삶의 목표 추구와 보편심리학의 꿈󰡕, 서울: 학지사, 2021.

하지영, 김태수, 「대순사상에 나타난『중용(中庸)』의 종교교육적 함의」, 『宗敎敎育學硏究』 73, 2023.

相関的思惟を言語教育学的に拡大した研究者は趙玉九である。趙玉九は、「天地玄黄(ハヌルチョン・タジ)」から学ぶ東洋伝統の千字文教育と、「ヨンヒちゃん・チョルスくん」から学ぶ西洋式の現代教育とを、東西洋の認知体系の違いとして説明し、東洋の相関的思惟が近代文明の代案的科学となりうることを提示した。조옥구, 『백자초문』, 의왕: 이아, 2014.

조옥구, 『백자초문』, 의왕: 이아, 2014.

李御寧ら従来の元老学者たちも加わって、東学の相関的思惟を西洋の分析的思惟に対抗する理論として提示したが、これらの理論を総合して相関的思惟体系を総合的に説明した者は朴在柱である。朴在柱は、ホワイトヘッドの思想を中心に総合的に整理したことがある。박재주, 『동서양 세계관과 윤리의 만남』 ,서울: 철학과 현실사, 2011.

박재주, 『동서양 세계관과 윤리의 만남』 ,서울: 철학과 현실사, 2011.

上から下へと思惟する東洋の生成論的思惟に従って、相関的思惟において宇宙のなかでの人間の地位は、天地の属性をすべて有する存在として、天地と接化する存在となる。したがって天地は、天地の仲裁のために人間を必要とすることになり、天地においてもっとも秀でた気を人間に付与する。

陰陽五行の気が天地のなかに流れ込んで、秀でたものが人となり、滓は事物となる。秀でたもののなかでも秀でたものは聖人となり賢人となり、秀でたもののなかの滓は愚かな人となり不肖の人となる。『朱子語類』 卷14, 只是一箇陰陽五行之氣, 滾在天地中, 精英者爲人, 渣滓者爲物. 精英之中又精英者, 爲聖爲賢; 精英之中渣滓者, 爲愚爲不肖. (안유경, 「유학과 대순사상의 생명론 비교 고찰」, 『대순사상논총』 42, 2022, pp.75-108에서 재인용)

『朱子語類』 卷14, 只是一箇陰陽五行之氣, 滾在天地中, 精英者爲人, 渣滓者爲物. 精英之中又精英者, 爲聖爲賢; 精英之中渣滓者, 爲愚爲不肖. (안유경, 「유학과 대순사상의 생명론 비교 고찰」, 『대순사상논총』 42, 2022, pp.75-108에서 재인용)

天地の気運が接化されて生まれた人間は、天地とともに天地が万物を化育するのに同参することが人間の義務となる。天地は誠敬信をもって人間を化育し、人間は誠敬信をもってこれに報いる存在となる。『대순진리회 요람』, 「훈회」.

『대순진리회 요람』, 「훈회」.

ただ天下に至誠を尽くす者のみが、能く自らの性を尽くすことができるのであり、自らの性を尽くすことができれば、能く他の人の性を尽くすことができる。他の人の性を尽くすことができれば、能く事物の性を尽くすことができ、事物の性を尽くせば、天地の化育を助けることができるであろう。天地の化育を助けることができれば、天地とともに(天地の化育に)参与することになるのである。「中庸」22章:惟天下至誠,為能盡其性,能盡其性,則能盡人之性,能盡人之性,則能盡物之性,能盡物之性,則可以贊天地之化育,可以贊天地之化育,則可以與天地參. (김학권, 「『易傳』에서 修養의 문제」, 『동양철학』 31, 2009, p.201에서 재인용)

「中庸」22章:惟天下至誠,為能盡其性,能盡其性,則能盡人之性,能盡人之性,則能盡物之性,能盡物之性,則可以贊天地之化育,可以贊天地之化育,則可以與天地參. (김학권, 「『易傳』에서 修養의 문제」, 『동양철학』 31, 2009, p.201에서 재인용)

上の例文において、接化的人間とは、天地の気運をそれぞれ受けた存在であり、これを性(性)といい、この性を性として尽くして天地に返す存在として現れる。相関的思惟によって東洋思想を翻訳してきたエイムズとホールは、『中庸』を「日常事に焦点を合わせること」と翻訳し、天地の誠(誠)とは、西洋の実体的世界観において解釈する場合には、脱近代性の哲学者ホワイトヘッドがその過程思想において説く創造性(Creativity)として解釈されなければならないという。ホワイトヘッドもまた、これについて言及したことがあるという。

あらゆる哲学理論において、偶然性のおかげで実際的な究極者が存在する。〔…〕有機体の哲学において、この究極は「創造性」と呼ばれる。〔…〕一元論哲学において〔…〕この究極者は神であり、「絶対者」という名で呼ばれることもある。このような一元論哲学の構図において究極者には、いかなる偶然性をも超える最終的に「卓越した実在性」が不当に許容されている。このような観点から、有機体の哲学は、西アジアやヨーロッパの思想よりは、インド・中国哲学の学派にはるかに近いように見える。A. N. Whitehead, D. R. Griffin and D. W. Sherburne, Process and reality, New York: Free Press, 1929. pp.10-11. 로저 에임스, 데이비드 홀 지음 ; 장원석 옮김, 『일상사에 초점 맞추기: 『중용』의 번역과 철학적 해석』, 성남: 한국학중앙연구원출판부, 2019. pp.50-51에서 재인용.

A. N. Whitehead, D. R. Griffin and D. W. Sherburne, Process and reality, New York: Free Press, 1929. pp.10-11. 로저 에임스, 데이비드 홀 지음 ; 장원석 옮김, 『일상사에 초점 맞추기: 『중용』의 번역과 철학적 해석』, 성남: 한국학중앙연구원출판부, 2019. pp.50-51에서 재인용.

誠(誠)を創造性として解釈するとき、天地が人間を生人(生人)することも創造性であり、人間が返すこともまた創造性となる。接化においては、創造性の概念が核心となる。東洋の接化的人間観は、自然との調和を追求し、無理な発展を追求しはしなかったが、相関的思惟に固着して、相関的思惟以前の思惟、すなわち天の上の天を忘却し、新しいものを拒否する固着状態へと進入して、マテオ・リッチのような西洋の批判に適切に対応することができなかった。これゆえ、西洋の衝撃があってはじめて、東洋は自生的近代性を模索することになった。

李英蘭のリミナリティ理論の立場からみるならば、天(1)、地(2、1+2)に続いて、人間(3、1+2、1+2+3)は、再び人間を超えて第三の存在(1+2+3=1′)へと変化しうる存在であり、この変化可能性のリミナリティの様相が人間の接化的特性となる。人間は、天地が付与した陰陽、すなわち魂と魄を有して、みずから変化しうるがゆえに、宇宙が繰り広げる天地化育の公演を知ってやることのできる知人(知人)となりうる。さらに人間は、直接に宇宙において公演を行う存在にまで至らなければならない。西洋の衝撃による自生的近代性の人間観において、リミナリティは理想的人間観の実現を準備することになる。

近代の東西洋の人間観の衝突と相克化(相克化)

人間観の衝突

東西洋の人間観は、東西洋が交流する以前にも、すでに多くの問題をはらんでいた。東西洋の人間観が独自に発展するなかで、各人間観の短所もまた際立つ。まず地水火風の場合、第五元素が唯一神化されることによって、まず西洋において地水火風の神明体系が消滅する。손윤락, 「아리스토텔레스의 요소 이론: 『생성소멸론』에 나타난 요소들의 생성-소멸 메커니즘을 중심으로」, 『西洋古典學硏究』 31. 2008, pp.83-108. 弱化した地水火風の天観・地観・人間観において、地水火風の神明は冷遇されて退出させられ、唯一神と人間との間の契約関係として天人関係が私事化される。人間は唯一神の前で罪人へと転落し、悔い改めて救済されてはじめてなりうる存在となり、死んではじめて極楽へ行くことのできる地位となる。東洋もまた、相関的思惟が固定化されることによって、両班と常人(サンノム)の差別が深化した。これは東西洋の交流によって変化の契機を迎えた。

손윤락, 「아리스토텔레스의 요소 이론: 『생성소멸론』에 나타난 요소들의 생성-소멸 메커니즘을 중심으로」, 『西洋古典學硏究』 31. 2008, pp.83-108.

悪貨が良貨を駆逐するという経済学の法則のように、東西洋が交流するなかで、東西洋は互いに長所も交流されるが、人間観においては短所がいっそう際立つ。東西洋が交流するなかで、西洋の超越志向的人間観が、まず内在志向的人間観へと変わることになる。超越的な神がいなくとも倫理的な人間社会が可能であるということをマテオ・リッチから知った西洋は、もはや神の救済を望まず、神の座は物質が代替することになる。

東西洋の人間観の衝突は、東洋思想によって近代性を成し遂げた西洋が、富国強兵策によって国力を養った後に発生した帝国主義の時期から発生する。東西洋が衝突するなかで、当初は第五元素として地水火風の仲裁者であった地水火風の天は、内在神としての属性が消え去り、超越神として現れる。超越的な唯一神にとって、地は人間が享受しうる支配・征服の対象として提供され、東洋もまたこれに該当する。

東西洋の天観・地観・人間観は、表面的な相違点とは異なり、古代へさかのぼれば共通の起源を有することもある。大巡思想にも現れる三十六天の場合、道教の三十六天の天観にも現れるが、これは仏教以前の東西洋共通の天観・地観・人間観の起源と関連する。道教の霊宝経(霊宝経)経典に現れる道教の三十六天の天観は、『阿毘達磨倶舎論』に現れる仏教の二十八天の天観に関連するという。仏教の天観である二十八天は、欲界・色界・無色界の垂直的に区分され、道教の三十六天は東西南北の四方の水平的区分の意味でも区分されるというが、仏教の二十八天もまた、道教と同じく天文の二十八宿に関係するという。야노 미치오 지음, 전용훈 옮김, 『밀교점성술과 수요경』, 서울: 동국대학교출판부, 2010. 仏教の二十八天がはじめて現れる『阿毘達磨倶舎論』は、仏教の教えとみなされる小乗経典であるが、仏教の二十八天理論は、仏教成立以前であるインド・ヨーロッパの三機能体系(trifunctionalism)の遺産とみなされ、これはさらにさかのぼって東西洋共通の天文思想に由来するという。평천창 지음, 이호근 옮김, 『印度佛敎의 歷史 (上)』, 서울: 民族社, 1991, pp.196-199.

야노 미치오 지음, 전용훈 옮김, 『밀교점성술과 수요경』, 서울: 동국대학교출판부, 2010.

평천창 지음, 이호근 옮김, 『印度佛敎의 歷史 (上)』, 서울: 民族社, 1991, pp.196-199.

三機能体系とは、共通の言語を駆使する古代インドとヨーロッパにまたがる広大な地域の神話と社会組織のいずれにおいても、天地人のように、天のような宗教階級―ブラフマン(Brahman)、人間のような戦士(戦士)階級―クシャトリヤ(Kshatriya、刹利種、刹利種)、地のような生産階級であるヴァイシャ(Vaishya)―シュードラ(Shudras)系列の体系が現れるという理論である。実際に三機能体系理論をはじめて発見したデュメジルは、五十以上の言語で古代文化を調査し、ギリシア・ローマ神話に現れるトロイア戦争やヒンドゥー神話にも三機能体系が共通して現れるという。実際にギリシア神話のトロイア戦争の場合、生産と美を象徴するアフロディテ、宗教を象徴するヘラ、政治を象徴するアテナの間の戦争であったという。김현자, 『조르주 뒤메질, 인도-유럽 신화의 비교 연구』, 서울: 민음사, 2018. インドの場合も、仏教にも現れる弥勒系列のミトラはヴァルナとともに宗教をつかさどり、金剛山系列に現れる雷の神ヴァジュラはインドラとともに政治をつかさどる。미르치아 엘리아데, 『세계종교사상사2: 고타마 붓다에서부터 기독교의 승리까지』, 이학사, 2005, pp,105-106. 仏教固有の教えであるという『阿毘達磨倶舎論』に仏教以前の教えが含まれる理由は、小乗仏教と相反する大乗仏教の教理が仏教に受容される過程と関連があるという。科学的な仏教経典の解釈者として著名な佐々木閑(佐佐木閑)によれば、アショーカ王の碑文に現れているように、二度にわたる仏教の結集を通じて、仏教的なものとして受容しうる範囲をきわめて拡大したという。사사키 시즈카, 『과학의 불교: 아비달마불교의 과학적 세계관』, 서울: 모과나무, 2017. したがって、大巡思想にも現れる仏教の天界観の主要な役割を果たす金剛山も、インド古代神話の雷の神ヴァジュラ(Vajra)と三機能体系をなす構造になっている。

김현자, 『조르주 뒤메질, 인도-유럽 신화의 비교 연구』, 서울: 민음사, 2018.

미르치아 엘리아데, 『세계종교사상사2: 고타마 붓다에서부터 기독교의 승리까지』, 이학사, 2005, pp,105-106.

사사키 시즈카, 『과학의 불교: 아비달마불교의 과학적 세계관』, 서울: 모과나무, 2017.

仏教の三機能体系が時間的な垂直の性格を有しているとすれば、古代の東西洋の交流によって変化した中国の天観・地観・人間観の場合は、天地人という空間的配置として三才観がいっそう際立って現れる。道教の三十六天の天界観は、仏教の二十八天の天界観を内面に含んでいる。요시코. 가미쓰카, 장원철, 이동철 옮김, 『도교 사상』, 서울: AK (에이케이커뮤니케이션즈), 2022, pp.116-121. 空間的配置が強調される東アジアの天観・地観・人間観の場合、三才循環の動力もまた、個人の業報の輪廻よりは祖先と子孫の勝負(勝負)として現れる。したがって東アジアにおいて天観・地観・人間観は、神話的には代表的な文明族である共工族が地下の文明神として現れ、その遺物として地下神が現れる。정재서, 『사라진 신들의 귀환』, 파주: 문학동네, 2022

요시코. 가미쓰카, 장원철, 이동철 옮김, 『도교 사상』, 서울: AK (에이케이커뮤니케이션즈), 2022, pp.116-121.

정재서, 『사라진 신들의 귀환』, 파주: 문학동네, 2022

西学であるカトリックも、天観・地観・人間観においてヨーロッパ・インドの三機能体系が反映されている。しばしばアブラハム系列の宗教の起源となったといわれるゾロアスター教もまた、弥勒の起源となるミトラ神を起源とする三機能体系に基づいて、死後の天界と冥府を強調している。김영덕, 허용구, 김병수 지음, 『중국문학사』, 서울: 청년사, 1992, p.133, 김채수, 『알타이 문명론』, 서울: 박이정, 2013. p.691에서 재인용.

김영덕, 허용구, 김병수 지음, 『중국문학사』, 서울: 청년사, 1992, p.133, 김채수, 『알타이 문명론』, 서울: 박이정, 2013. p.691에서 재인용.

三機能体系によって代表される西洋の天観・地観・人間観と、天地人によって代表される東洋の三才観とが共通点を有しているが、二つの天観・地観・人間観は、時間と空間の強調点の違いのほかにも、三界の創造主を三界と区分する方法にも違いを示す。西洋の天観・地観・人間観は、東洋の三才観に比して、創造主が持続的に干渉し、さらには西学においては、天界・地界・人間界の神がすべて消え去って唯一神体系となる。一方、東洋の三才観において、創造主は隠れた神(Deus absconditus)として現れる。東学思想と大巡思想に現れる上帝は、東洋の隠れた神と西洋の唯一神の属性が同時に現れるため、労思光(労思光、1927-2012)は「中国古代思想において神(神)はユダヤ教とは異なり、ユダヤ教の神のような一神(一神)的な神を言及するときには「天(天)」または「帝(帝)、上帝(上帝)」を用いた」という。勞思光, 『中國哲學史(古代篇)』, 정인재 역, 『중국철학사(고대편)』, 서울: 탐구당, 1988, pp.44-45, 김영호, 「『시경(詩經)』의 천(天) 속성과 『시편(詩篇)』의 신(神) 속성 비교 연구」, 『원불교사상과 종교문화』71, pp 201-236에서 재인용. 西学と道教としては類似した部分のように見えることになる。

노사광(勞思光, 1927-2012)은 “중국 고대 사상에서 신(神)은 유대교와 다르며 유대교의 신과 같은 일신(一神)적인 신 언급할 때는 ‘천(天)’ 또는 ‘제(帝), 상제(上帝)’를 사용했다고 한다. 勞思光, 『中國哲學史(古代篇)』, 정인재 역, 『중국철학사(고대편)』, 서울: 탐구당, 1988, pp.44-45, 김영호, 「『시경(詩經)』의 천(天) 속성과 『시편(詩篇)』의 신(神) 속성 비교 연구」, 『원불교사상과 종교문화』71, pp 201-236에서 재인용.

東西洋の人間観に内在する共通の起源は、東西洋が交流するなかで、自生的近代性の人間観を形成させる背景となる。相関的思惟に埋没した東洋の人間観も、超越天の介入によって変化の契機をなし、西洋もまた、物質化させた東洋の内在天を再び再定立する契機となる。

天人(天人)・地人(地人)関係の相克化

東西洋が個別的に発展するなかで、陰陽五行と地水火風の天観・地観・人間観は、それぞれ異なる方向に相克化されるが、二つの思想体系は精巧化される。陰陽五行の世界観において、天人関係は、『詩経』・『書経』の人格的天人関係から、김영호, 「『시경(詩經)』의 천(天) 속성과 『시편(詩篇)』의 신(神) 속성 비교 연구」 『원불교사상과 종교문화』 71, 2017, pp.201-236. 湯王・桀王の善悪分別の理法的天人関係へと転換し、戦国時代に陰陽・三才・五行思想が理論的に結合され、이승재, 『팔괘의 과학적 탐구』, 서울: 미래터, 2016. 以後、仏教の導入とともに、理法(理法)が実体化された天界・地界・人界の三界が道教において完成される。최수빈, 「도교에서 바라보는 저 세상-신선(神仙)과 사자(死者)들의 세계에 반영된 도교적 세계관과 구원」, 『道敎文化硏究』 41, 2014, pp.303-350. 『玉枢宝経』において完成される超越論的神明体系もまた弱化して、人間と神の内在的な陰陽関係は色あせる。

김영호, 「『시경(詩經)』의 천(天) 속성과 『시편(詩篇)』의 신(神) 속성 비교 연구」 『원불교사상과 종교문화』 71, 2017, pp.201-236.

이승재, 『팔괘의 과학적 탐구』, 서울: 미래터, 2016.

최수빈, 「도교에서 바라보는 저 세상-신선(神仙)과 사자(死者)들의 세계에 반영된 도교적 세계관과 구원」, 『道敎文化硏究』 41, 2014, pp.303-350.

東西洋の天観・地観・人間観が衝突する以前、マテオ・リッチ以前の西洋の神人関係を考察すると、西洋の神人関係は、森羅万象のすべての事を主宰される全知全能の唯一神である絶対神があり、その下に唯一神の事を特別な場合にのみ遂行する天使がおり、天国と地獄に人間の霊魂がある構造であった。世界の死生観は、救済と分身(avatar)という二つの形態として現れるという。(에드가 모랭 지음, 김명숙 옮김, 『인간과 죽음』, 서울: 東文選, 2000. pp.147-164) マックス・ウェーバーもまた、世界の宗教は他力信仰である救済宗教と自力信仰である非救済宗教に分かれるという。(전성우, 「막스 베버의 유교론-비판적 재구성」, 『남명학연구』16, 2003, pp.310-314) 最近の研究は、同じ東アジアであっても、ユーラシアの神話、とりわけ弥勒と檀君によって代表される韓国神話は、天(天)・陽(陽)・火(火)・仙(仙)としての三数分化的なManaismであり、仏教・道教によって代表される中国神話は、地(地)・陰(陰)・水(水)・道(道)としてのAnimismの二重構造になっているという。(전제훈, 「韓國古代神話의 manaism的 照明」. 圓光大學校 박사학위논문, 2013, pp.11-12) 西洋では自然を運行する天地神明が忘れられたが、東洋では忘れられた神明の存在が記憶されるという長所があった。西洋の唯一神は、遊牧文化と小麦農耕の影響を受けて、東洋の上帝のように法則に従って主宰するというよりは、特定の法則なく恣意的にすべてを行うことのできる存在であり、天使もまた東洋の神明とは異なり、特別に特定領域の固有の業務を担う存在ではなかった。したがって人間と天使のもっとも大きな罪は、東洋のように自己固有の領域の任務を遂行できないことではなく、恣意的に変わる唯一神の命令に対する不服従であった。西洋において唯一神の権威は抑圧的であったが確固たるものであった。

세계의 죽음관은 구원과 분신(avatar)이라는 2가지 형태로 나타난다고 한다.(에드가 모랭 지음, 김명숙 옮김, 『인간과 죽음』, 서울: 東文選, 2000. pp.147-164) 막스 베버도 세계의 종교는 타력신앙인 구원종교와 자력신앙인 비구원종교로 나뉜다고 한다.(전성우, 「막스 베버의 유교론-비판적 재구성」, 『남명학연구』16, 2003, pp.310-314) 최근 연구는 같은 동아시아라도 유라시아의 신화 특히 미륵과 단군으로 대표되는 한국신화는 천(天), 양(陽), 불(火), 선(仙)으로서의 3수 분화적인 Manaism이고 불교, 도교로 대표되는 중국 신화는 지(地), 음(陰), 물(水), 도(道)로서의 Animism의 2중 구조로 되어 있다고 한다. (전제훈, 「韓國古代神話의 manaism的 照明」. 圓光大學校 박사학위논문, 2013, pp.11-12)

超越神を前提とする西洋の伝統的な天人関係は、キリスト教によって代表される西洋思想が提示する。アリストテレスの用語によって自己を表現したキリスト教は、超越者のモデルもアリストテレスの第五元素モデルとして提示する。アリストテレスの神は、地水火風の宇宙論の第五元素のように、地水火風の循環を超越した位置から眺める存在である。天道地徳が象徴するように、伝統的に東洋において地は「徳」という属性として表現されてきた。したがって「徳」は東西洋の地観を比較する主要な要素となる。とりわけ西洋の世界観の構築に中枢的な役割を果たしたアリストテレスの徳概念は、大巡思想の徳概念と重要な比較の対象となる。(주소연, 『대순사상의 덕윤리 연구』, 대진대학교 박사학위논문, 2024.

천도지덕이 상징하듯이 전통적으로 동양에서 땅은 “덕”이라는 속성으로 표현되어 왔다. 따라서 “덕”은 동서양의 지관을 비교하는 주요 요소가 된다. 특히 서양 세계관 구축에 중추적인 역할을 한 아리스토텔레스의 덕 개념은 대순사상의 덕 개념과 중요한 비교의 대상이 된다.(주소연, 『대순사상의 덕윤리 연구』, 대진대학교 박사학위논문, 2024.

当初、第五元素として地水火風の仲裁者であった地水火風の第五元素である天は、内在神としての属性が消え去り、超越神として現れる。西洋の場合、近代へと至るなかで、地水火風の宇宙観は実体という性格のみを残して、地水火風の相関性は排除する。これに従って、唯一神化された天尊に従って、人類の傲慢もまた倍加する。

天人関係のみならず、地人関係もまた相克化される。西洋において地は質料であり、支配の対象であったが、東西洋の交流の後には、いまや内在的な科学技術によって操作する操作対象へと転落する。東洋の場合、地は天地関係において役割が固着し、天の指示に従うのみの存在へと転落する。

天人関係は、東西洋を問わず、当初は相生的関係であった。西洋の場合、人間世界はイデアが投影された場所であり、神は自らの形に似せて人間を造る。東洋の場合、人間界は神明界からより高い所へ行くために修練を行う場所であった。しかし、天人関係・地人関係が相克化されることによって、もはや人間界を通じた天上界の発展は止まり、天地の化育も中断される。さらには宇宙全体が混乱を加速させ、尽滅の境地へと進入する。これゆえ、聖俗の再配置、すなわち近代性のリミナリティの様相が天人・地人関係において要請される。

東学思想の永世不忘(永世不忘)の人間観に現れたリミナリティ

東学思想の永世不忘(永世不忘)の人間観

超越天の介入による天観の変化は、地観の変化とあわせて人間観の変化をも招来する。超越天によって地の概念が造化と気化の概念へと変わり、地の地位が上昇して天と地の地位が同一になるように、人間もまた、超越天と「吾心即汝心」、すなわち同じ心を通わせることのできる存在へと格上げされることによって、人間は天地と同格の存在へと地位が格上げされる。

東学思想の人間観も、地観と同じく、東学思想が展開されるなかで徐々に明らかになる。東学思想が展開されるほど、東学思想に対する水雲の態度は変わっていく。天師問答と布徳活動、殉道(殉道)、殉道(殉道)は殉教(殉教)と同じく道による死を意味する。そして殉道以後も変化し続けていく。東学思想の人間観は、水雲の殉道を前後して特に変化する。

殉道(殉道)は殉教(殉教)と同じく道による死を意味する。

東学の教祖である崔水雲が、自殺に近い慶州への回帰を敢行した後、予想どおり刑場の露と消えたが、彼が蒔いた火種は、千辛万苦の末に崔時亨の努力によって再びよみがえりはじめる。崔時亨は、水雲が苦労して残したもののすべて失われた『龍潭遺詞』と『東経大全』を記憶からよみがえらせ、同僚たちの助けによって再び復元する。崔時亨が復元した『龍潭遺詞』と『東経大全』は全国へ配布され、東学は東学農民運動の形態でよみがえる。甑山はこれを蚩尤(蚩尤)になぞらえて、東学の作乱が始まったという。『典経』「教法」3-30。

『典経』「教法」3-30。

東学農民革命運動は、韓国の農民革命史上類例のない大きな運動となって成功するかに見えたが、日本の介入をもたらすことになり、かえってもっとも大きな悲劇の運動となった。しかし、東学に現れた上帝の意は広く弘布されて希望を残す。『典経』「予示」6。生き残った東学の信徒は、新たな新宗教や東学の変身である種々の運動に再び参与することになる。

『典経』「予示」6。

東学は、新宗教のうちもっとも早く出現した新宗教であるといえる。東学が新宗教に及ぼした影響は、一部の新宗教の研究に基づけば、統一教にまで至る。김탁, 『한국신종교를 관통하는 이념, 인간중심주의』, 서울: 민속원, 2023, p.405. 円仏教、統一教にも東学関連の言及が現れるためである。東学は1980年代以降、新宗教の復興期にもっとも多くの知識人が研究した分野でもある。一方、新宗教の主張は、東学の主張とは相反する。東学以後の新宗教において、東学は一般に、東学以後の新宗教が出現するための前奏曲であったと主張される。東学と東学以後の新宗教の主張は、互いの間の共通した教理体系を検討することによって知ることができる。東学の教理体系のうち、特に東学以後の新宗教と共通して有する教理体系は、相関的思惟の循環性である。

김탁, 『한국신종교를 관통하는 이념, 인간중심주의』, 서울: 민속원, 2023, p.405.

東学以後の新宗教に対する東学の影響が論争となるとすれば、東学は既存の宗教の影響が問題となる。東学の教理体系と既存の宗教の関係は、東学研究者の主要な研究課題の一つである。しかし、東学と儒教・道教・キリスト教との親和性の問題は多く研究されたが、東学の教理体系の循環的属性という相関的思惟の側面においては、いまだ多くは研究されていない。

東学は、仙道のように形式的には符を書いて呪文を唱えるが、内部的には輔国安民・忠孝烈・誠敬信などの性理学の体系を有している。また西教と同じく天主という用語を共有する。大巡真理会の東学に対する評価のように、東学は仙道を主張したが、儒教の典憲のために失敗したものと要約される。『典経』「教運」1-9。

『典経』「教運」1-9。

1980年代以降、東学学会を中心に再評価されている東学の循環的教理体系は、東学のみならず、大部分の新宗教が共有している三太極体系である。최민자, 「동서양 사상의 관점에서 조명해 본 동학; 켄 윌버의 홀라키적 전일주의(holarchic holism)와 수운의 시『侍』에 나타난 통합적 비전」 , 『동학학보』 23, 2011. 東学は教団期において相関的思惟の循環を核心教理としているのに比して、東学の教理体系に現れた固有の天観・地観・人間観は、よく研究されたことがない。

최민자, 「동서양 사상의 관점에서 조명해 본 동학; 켄 윌버의 홀라키적 전일주의(holarchic holism)와 수운의 시『侍』에 나타난 통합적 비전」 , 『동학학보』 23, 2011.

東学において、これまで高く評価されてきた相関的思惟の循環性は、教理体系の内部的な評価よりは、外部的な循環である東学農民運動の平等主義という部分であった。「侍り(모심)」は実践的側面において平等の意味を有するという。すべての東学徒が、呪文・祈祷のような内的修練を通じて、自分のうちに侍った天主をきわめて篤く仕え、日常生活のなかで絶えず接触する他人もまた、各自が自身の内面に天主を侍った存在であるという点を肝に銘じて、彼らを天主(ハヌルニム)として待遇せよという意味である。東学研究者たちが、東学の天主(ハヌルニム)が人間の内的な存在でもあることを強調するときにしばしば引用する次の一節には、実はこの二つの意味がともに含まれている。「われはおおよそ信じることなく、天主(ハヌルニム)を信じたのだ。汝の身に侍ったというのに、捨近取遠とはいかなることか。」(『龍潭遺詞』「教訓歌」)「汝の身に侍ったというのに」という言葉は、存在論的側面において人がすでに天主を侍った存在であることを、「われはおおよそ信じることなく、天主を信じたのだ」という言葉は、実践的側面において内的・外的の両方向に「侍り」の行為がなければならないという平等観を意味する。(「최제우와 박은식의 유교개혁 방향, 평등관, 서구 근대문명에 대한 태도」, 『퇴계학과 유교문화』 49, 2011, p.328) 東学は、東学以後の新宗教に現れた循環が東学の影響であると主張するが、東学と共通して現れる三太極の伝統を共有するため、東学以後にきわめて多様に現れる相関的思惟を、東学の影響とみなすことは難しい。

‘모심’은 실천적인 측면에서 평등의 의미를 가진다고 한다. 모든 동학도들이 주문, 기도 같은 내적 수련을 통해 내 안에 모신 천주를 극진히 섬기고, 일상생활 속에서 부단히 접촉하는 타인들 역시 각자 자신의 내면에 천주를 모신 존재라는 점을 명심하여 이들을 하늘님으로 대접하라는 뜻이다. 동학 연구자들이 동학의 하늘님이 인간 내적인 존재이기도 함을 강조할 때 자주 인용하는 다음 구절에는 사실 이 두 가지 의미가 함께 내포되어 있다. “나는 도시 믿지 말고 하늘님을 믿었어라. 네 몸에 모셨으니 捨近取遠하단 말가.”(『용담유사』 「교훈가」) ‘네 몸에 모셨으니’라는 말은 존재론적 측면에서 사람이 하늘님을 이미 모신 존재임을, ‘나는 도시 믿지 말고 하늘님을 믿었어라’라는 말은 실천적인 측면에서 내적, 외적 양방향으로 ‘모심’의 행위가 있어야 한다는 평등관을 의미한다.(「최제우와 박은식의 유교개혁 방향, 평등관, 서구 근대문명에 대한 태도」, 『퇴계학과 유교문화』 49, 2011, p.328)

『東経大全』の最後に現れる不然其然(不然其然)は、『東経大全』の全体的な脈絡からみれば、人間の地位変化と東学の神存在証明に該当する内容であるという。『東経大全』は、崔水雲の思想よりは、崔水雲に啓示を下した上帝の思想についての強調を主とする。実際、海月が水雲との対話を記した『道源記書』には、水雲は上帝から持続的に教えを受けてきており、上帝の教えが途絶えた以後、自身の死を予感してきわめて不安がっている。

崔水雲以後の東学は、また崔水雲の東学とは不連続を示す。『東経大全』あるいは『龍潭遺詞』のなかで、また前期と後期を異なって評価することもある。東学内部においても不連続を示すだけに、東学と他の新宗教とはきわめて隔たりがあることがわかる。

李康五の新興宗教資料は、主に教団の離合集散に集中しており、教理体系の違いよりは教理体系の共通性に注目している。東学が東学以後の新宗教を東学の影響とみなすのは、東学以後の新宗教を信仰した人物たちが、主に東学党員であったためである。東学党員は、東学の失敗以後、南方仏教、円仏教などにおいて活動する。

東学以後の新宗教が東学の影響であるという東学の主張に対する東学教理的根拠は、東学がまた儒仏仙の三教を総合したということである。しかし東学には仏教の影響がほとんどなく、呪文と符は唱えたり書いたりするが、また仙霊神を含めた神明世界を強調しないという点で、いまだ儒教の枠を大きく抜け出せていない点が多い。東学の不然其然を仏教と結びつけ、崔水雲が常に庵を中心に活動したという点で仏教と結びつける研究もある。(박경환, 「동학과 불교사상」, 『동학과 전통사상』, 모시는 사람들, 2004)

동학의 불연기연을 불교와 연결하고 최수운이 늘 암자를 중심으로 활동했다는 점에서 불교와 연결하는 연구도 있다. (박경환, 「동학과 불교사상」, 『동학과 전통사상』, 모시는 사람들, 2004)

東学が相関的思惟の循環を強調したのは、むしろ東学以後の新宗教が出現するなかで、東学が理論体系を再整備した1919年の三・一運動以後であるといえる。教理体系のない宗教に対する日本の弾圧政策によって、東学は李敦化を中心に教理体系の確立に乗り出した。今日、東学の本来の名が無極大道であると主張した金容沃の理論や、散均論などを中心に、東学を循環原理として把握しようとする動きがある。金芝河は、不然其然、律呂などを複雑系的循環原理とみなす。金芝河は「天と陽中心、コスモス中心の中国の史観や周易の核心的象徴は太極であり、陰陽・四象・八卦へと進む安定数、すなわちコスモスの秩序です。一方、弓弓は1・3・5・7・9という躍動数です。天地人の三極からなるわが国固有の意味と数理秩序である1・3・5・7・9は、まさにカオスです。」という。(김지하, 『예감에 가득찬 숲그늘』, 실천문학사, 1999, p.35)

오늘날 동학의 원래 이름이 무극대도라고 주장한 김용옥의 이론이나 산균론 등을 중심으로 동학을 순환원리로 파악하려는 움직임이 있다. 김지하는 불연기연, 율려 등을 복잡계적 순환원리로 간주한다. 김지하는 “하늘과 양 중심, 코스모스 중심의 중국 사관이나 주역의 핵심 상징은 태극으로 음양, 四象, 八卦로 나가는 안정수, 즉 코스모스의 질서입니다. 반면 궁궁은 1·3·5·7·9로 역동수입니다. 천지인 3극으로 되어 있는 우리 나라 고유의 의미와 수리질서인 1·3·5·7·9는 바로 카오스입니다.”라고 한다. (김지하, 『예감에 가득찬 숲그늘』, 실천문학사, 1999, p.35)

永世不忘(永世不忘)の人間観のリミナリティの様相

超越天によって地位が格上げされた東学の人間観の様相は、前期と後期を通じて異なって現れる。初期の天師問答において、侍天主を通じて上帝を侍ることのできる地位へと人間の地位が格上げされるのは、水雲の刻苦の努力によるものであった。

東学農民運動に参与した人々が、表向きは輔国安民を主張したが、内心では王侯将相を抱いていたという『典経』の言及のように、人は誰しも困難な環境においては物質に偏りやすいが、水雲はイエスのように天の提案も拒否する。四十余年にわたって万古の風霜を経た水雲にとって、物質の誘惑は呂洞賓のように通じないものであった。続く試みと水雲の断食闘争の末に、上帝は水雲に「吾心即汝心」という人間の地位上昇を明かしてやる。

しかし結局、後期に至っても、水雲はその「吾心即汝心」の趣旨を十分に理解できない。侍天主を通じて上帝を侍ることのできる地位へと人間の地位が格上げされたにもかかわらず、水雲はその趣旨を、儒教の典憲を越えられず、十分に理解できない。水雲は不然(不然)と其然(其然)を通じて人間の問題を解決する。「理解しがたいものが不然であり、理解しやすいものが其然である。」人間の理性によって理解が可能で経験しうる世界が其然であるとすれば、不然は人間の理性によって理解が不可能で経験しえない世界である。とすれば、不然は理(理)・道(道)・一心(一心)・天(天)と通じる。しかし、ここで重要なのは、不然と其然が二分法的な対立項ではないということである。経験を通じて経験の彼方の真理を悟り、われわれの目の前の事物から悟りを得るように、経験を通じて究極的実体に達することができるもの、이도흠, 「탈현대 사상으로서 동양 철학의 가능성과 한계」, 『동학학보』 10, 2005, p.22. という程度に「吾心即汝心」は理解されることになる。不然其然は、東学思想の研究者にとっては卓越した認識論として理解されることもあるが、大巡思想の道通真境と比較するならば、いささか隔たりのある理解であった。

이도흠, 「탈현대 사상으로서 동양 철학의 가능성과 한계」, 『동학학보』 10, 2005, p.22.

東学思想の永世不忘的人間観は、西学と大きく二つの点で違いがあった。まず代表的には、司祭と信徒の差別の撤廃である。東学思想は、西学における司祭と信徒の厳密な区分を批判する。東学思想は、西学が儒仏仙に比して人間を平等にみたという点は高く評価するが、司祭と信徒の間の階級的差異については大きく批判する。東学思想の永世不忘的人間観が、人間観の宗教思想史的側面において現れる際立った点は、「侍天主」の範囲において司祭と信徒の区分を設けなかったという点である。これに従って、東学思想においては、今日の咸錫憲らの無教会主義のように、信徒と司祭の区分が消える。これが東学の人間観の特徴である接主制(接主制)の意義となる。西洋の宗教改革が神父の特権を廃棄したとすれば、東学思想は牧師の特権までも廃棄する。

西学と区分される永世不忘的人間観の第二の特徴は、「各自為心(各自為心)」と「各知不移(各知不移)」の違いである。西学において天主は外部にあるという表層宗教的特徴がまず強調されたとすれば、東学思想の侍天主は、天主が内部にあるという深層宗教の特性が強く現れる。したがって修行の方法もまた、西学の場合、ウェーバーが指摘したように、カルヴァン主義のように、救済の証明が俗世の成功であるという「各自為心」として信仰の形態が現れる。これは西洋の近代性の基盤となった。しかし東学思想は、救済の証明が内部にあることになるため、内部の省察的倫理をみずから実行する道徳的修行、すなわち「各知不移」にあることになる。

西学と対比される東学の人間観の特性が、司祭と信徒の差別の撤廃、世俗的成功よりは省察的倫理の強調として現れるとすれば、儒仏仙と対比される東学の人間観の特性は、小宇宙的人間の強調として現れる。後期東学においては、これを「人乃天」という用語にまで拡大するが、初期東学において人間観は、あくまでも天地のなかの人間である。ただし、侍天主を通じて、人間は「内有神霊・外有気化」という修行を通じて、天主の無為而化に従う天地化育に同参しうる存在となる。

「内有神霊・外有気化」の範囲を人乃天にまで拡大しうるかどうかの違いに従って、東学思想と大巡思想の人間観は違いが生じた。十九世紀の東学の中心教義は、侍天主(侍天主)、すなわち天主(ハヌルニム)を侍ることであった。それが、東学から天道教へと改称され、組織改編がなされることによって、核心教義は人乃天(人乃天)へと転換し、天(天)の人格性は大きく弱化するという。(황종원, 「이돈화의 우주관과 인간관이 지니는 동서철학 융합적 특징 및 생명철학적 의의:『신인철학』을 중심으로」, 『儒學硏究』 36, 2016, p.590) 今後の展開過程において天道教へと発展した東学思想は、「内有神霊・外有気化」の範囲を人乃天にまで拡大する。これゆえ、人間を天地化育に同参する存在としてのみ規定する大巡思想を、前近代的思想として批判することもある。初期の東学思想の人間観は、実際には大巡思想においてより具体的に展開される。

19세기 동학의 중심 교의는 시천주(侍天主), 즉 하늘님 모심이었다. 그러던 것이 동학에서 천도교로 개칭되고 조직 개편이 이루어지면서 핵심 교의는 인내천(人乃天)으로 전환되고, 천(天)의 인격성은 크게 약화된다고 한다.( 황종원, 「이돈화의 우주관과 인간관이 지니는 동서철학 융합적 특징 및 생명철학적 의의:『신인철학』을 중심으로」, 『儒學硏究』 36, 2016, p.590)

東学思想の人間観は、東学思想の侍天主的人間がともに集まって現れる地上天国という用語へと拡大される。後期東学において地上神仙は、初期東学に現れる人界と地界の交流による結果ではなく、侍天主を悟った人という意味として理解されることになる。地上神仙が集まって成し遂げる地上天国という用語もまた、初期東学においては、天と地の相互交流に従う天と地の位相変化、すなわち天尊地卑から天尊地尊の関係への変化に従う地上の地位上昇を内包する意味であったが、後期東学においては、侍天主的人間が集まって成し遂げる自生的近代の世界として描写される。初期東学の地上天国の概念は、むしろ大巡思想において再解釈される。

東洋の内在天において再活性化された東学思想の超越天は、無為而化という地観のみならず、人間観にも大きな変化をもたらした。東学思想の人間は、超越天と直接疎通する人間へと格上げされる。これゆえ聖―俗関係は再編され、一般の民衆はこれを、自身が王侯将相に至りうる地位上昇として解釈することもあった。地上天国と地上神仙という表現が現れるように、東学の最初の趣旨は儒教の典憲を越えることであったが、その趣旨は十分に実現されなかった。東学思想の人間観は、聖―俗の関係を再配置し、一般の民衆が近代性のリミナリティに参与しうる動機を付与して、自生的近代性の契機を整えた。

東学思想の内有神霊(内有神霊)の天人(天人)関係に現れたリミナリティの様相

東学思想の核心的特徴を侍天主と開闢とみなす研究は多くあるが、二つの概念を結びつける「造化」についての研究は稀である。侍天主の結果である造化は、東学思想において気化、至気として多様に解釈されてきた。至気という概念が新しい概念であるとはいえ、「気」という概念の外延にあるとすれば、東学思想が既存の西学や性理学と区分されるもっとも特徴的な概念は「造化」であり、この造化が人間の内面に適用されたものが内有神霊であり、個別の日用事物の外部に適用されたものが気化であるといえる。この造化が、天人関係からみれば神霊として現れ、地人関係からみれば気化として無為而化と造化として現れる。

天の上の天を強調する東学思想において、地観もまた上帝の気化作用によって変貌するため、したがって天と人間の関係は内有神霊(内有神霊)の関係へと変貌する。

侍天主の「造化」は内有神霊(内有神霊)として現れ、西学の唯一神的天人関係の神尊人卑をも克服する。厳格に区分された西学の唯一神とは異なり、侍天主の上帝は「吾心即汝心」のように、廃棄されていた天人合一の境地を復活させる。東学思想は、天の上の天が介入したが、西教とは異なり、天の内の天である天地概念も含んだがゆえに、一般の信徒も天の上の天と心によって結ばれることができた。これゆえ東学思想は、天の上の天と通じたが、西教とは異なり、司祭と信徒の間の位階のない天人関係となり、すなわち社会と個人の関係も変化する。

東学思想においては、性理学におけるように両班と常人(サンノム)が天から稟賦された気の差別もなく、西教のように司祭と信徒の差異もなく、信徒もまた天の上の天と同じ心を有しうる存在として、人間の地位が格上げされる。これゆえ、聖と俗の境界が再配置される自生的近代性のリミナリティの様相が、東学思想の天人関係と地人関係において成し遂げられる。

東学思想の外有気化(外有気化)の地人(地人)関係に現れたリミナリティの様相

「造化」という概念は、東学思想の当時にも自然の主要な特性でもあったが、性理学は凡節という人間社会の特性を主に強調して、造化の自然に現れる特性を強調しはしなかった。人間社会の節度ある変化である凡節に比して、自然の造化は新たな生命を誕生させる創造性と関連する概念であり、東学当時の朝鮮社会は凡節はあふれていたが、造化と創意性を生かしてやれる文化が儒教によって抑圧されていた。

創造と進化を意味する造化を抑圧するのは、性理学のみならず、当時の伝統的な朝鮮の民衆の目には西学も同様であった。祭祀を迷信化し、司祭と信徒の位階秩序が厳格な西学の唯一神の抑圧は、性理学を凌駕する権威主義として迫ってきた。これゆえ社会は新たな反構造を必要とする状況に逢着して、윤승용, 「新宗敎의 反構造(communitas)的 性格에 관한小考」, 서울大學校 석사학위논문, 1982. これを調和させてくれる新たな思想を必要とした。

윤승용, 「新宗敎의 反構造(communitas)的 性格에 관한小考」, 서울大學校 석사학위논문, 1982.

造化は常に、互いに相反する矛盾の問題を解決する過程であった。陰陽の調和、新旧の調和のように、造化は常に相反する要素を前提とする。宗教人類学において造化にもっとも近い概念は、リミナリティ(Liminality)の概念を挙げることができる。敷居・境界という意味のリメン(Limen)という単語に由来するリミナリティは、人類学者ファン・ヘネップが研究した大部分の通過儀礼において共通して現れる、相反する要素の境界地点を意味する単語であった。たとえば、結婚式のような通過儀礼には、結婚する前と結婚した後の間に、反構造的な逸脱の期間である新婚旅行や東床礼のような儀礼がある。実際、日常の通過儀礼が常に起こる門には、西洋の場合、二つの顔を持つヤヌスがおり、東洋の場合は太極があった。太極とヤヌスは、境界地点における逸脱の許容、すなわち造化を意味するものであった。

侍天主が造化、すなわちリミナリティを意味することになったのは、当時、相克が極大化した神尊人卑の天人関係に起因するところが大きい。当時、常民は、性理学の立場からは濁気が満ちた存在であり、西学の立場からは罪人であったが、侍天主によって上帝を侍ることのできるリミナリティを提供された。

侍天主から始まった天人関係の変化、すなわちリミナリティの天人関係は、東学を中心に社会全般へと拡大される。これゆえ、地と人の関係、すなわち地に基づく社会と人間の関係が変化する。東学は、早くから「信じる」とは言わず「行う」という言葉で呼ばれたといい、リミナリティによって招来される反構造的社会、すなわちコミュニタスの反構造的行為の実践として現れる。朝鮮時代の性理学を経てほとんど尊重されなかった創造性と「造化」が尊重されると、朝鮮時代にもっとも抑圧されていた女性と子どもに対する処遇からが開闢される。

東学思想に現れた超越的な天の介入による天観の変化が招来した地と人間の地位上昇は、伝統的な地人関係に反構造的性格のリミナリティの様相を現れさせた。性理学において、天地の清い気を稟賦された両班が聖(聖)の領域を守っていたとすれば、濁った気を稟賦された民衆は俗(俗)の領域に位置づけられたが、人間の地位格上げによって変化が生じた。いまや民衆も王侯将相になりうるという宗教的正当性を確保したことで、自生的な聖―俗の再配置が発生することになる。

地人関係を詳細に考察すれば、魂の性質に似て自由に動くことのできる天に比して、魄の性質に似て形体を持ち性質が重い地の属性は、抑陰尊陽、陽尊陰卑のように、東洋においても地は人間にとっては拘束として迫ってくる存在であった。天文地理という言葉のように、東洋において地は、自然科学の理法のように、人間に物質的法則によって日常を制限する存在であった。西洋ではもちろん、エデンの園から人間が追放された場所が地であり、仏教においても地は苦痛の温床地であった。

東学思想が強調した造化は、伝統的な地と人間の関係にも変化をもたらした。東学思想の侍天主が、天を侍ることによって新たな天を開き、再び開闢を通じて、東学思想は新たな地人関係を作り上げた。

東学思想は、過去に禁じられていた地の役割の変化を、侍天主の造化を通じて図る。東学思想において地人関係は、下元甲を過ぎた好時節が『龍潭遺詞』「夢中老少問答歌」循環する。地人関係において、人傑は地霊によって代表され、名賢達士が東学信者として入教することになる。『龍潭遺詞』「龍潭歌」

『龍潭遺詞』「夢中老少問答歌」

『龍潭遺詞』「龍潭歌」

東学思想において地は、再び開闢によって地上天国となり、地上神仙となりうる場所となる。地の理致が異なる東の学問、すなわち東学を通じて開闢された地において、東学思想は西学を克服する力をも得ることになる。東学は、西洋に敗北した中国に代わって西洋を克服する力を韓国に付与し、新たな国家をも誕生させる。東学思想に現れた東方の力は、中国を侵犯した妖しい西洋の敵を、大報壇の盟いをもって大報壇に盟い、韓の仇を討たんとし、『龍潭遺詞』「安心歌」、ここで大報壇とは、1705年の粛宗の時、壬辰倭乱の際に軍隊を送って救ってくれた明(明)の万暦帝の恩徳をたたえるという趣旨で初めて建てられた祭壇であり、のちに圜丘壇へと変わる。これに勝ち抜かせる。

대보단에 맹세하고 한의원수 갚아보세, 『용담유사』「안심가」, 여기서 대보단은 1705년 숙종 때 임진왜란 때 군대를 보내 구해준 명(明)나라 만력제의 은덕을 기린다는 취지 처음 세워진 제단으로 뒷날 환구단으로 바뀐다.

天人・地人関係の変化は、社会における人間の地位に対する認識にも変化をもたらす。全琫準の取り調べにも出てくるように、東学農民運動の契機は「国じゅう両班になること」の企図と一致する。김상준, 「온 나라가 양반 되기-조선 후기 유교적 평등화 메커니즘」, 『사회와 역사(구 한국사회사학회논문집)』63(0), 2003, pp.5-29. これは『典経』に次のように現れる。

김상준, 「온 나라가 양반 되기-조선 후기 유교적 평등화 메커니즘」, 『사회와 역사(구 한국사회사학회논문집)』63(0), 2003, pp.5-29.

全明淑(全琫準)が挙事するとき、常人(サンノム)を両班とし、賤人(賤人)を貴くしてやろうとする心を抱いていたゆえに、死して善く成り、朝鮮の冥府となったのである。『典経』「教法」1-2。

『典経』「教法」1-2。

東学思想は、さらに東学農民運動の参加者たちが胸のうちに登用を夢見させもする平等思想を有して、すべての市民が官僚となることを図る。しかし、いまだ参加者たちの王侯将相になろうとする欲望が内在して、地上天国を実現するには、東学思想は完成を成し遂げえない欲速不達の状態であった。当時、外国人の目に映った韓国人の姿は労働意欲の喪失であったという。収穫をしても奪われる状況において、王侯将相になる道がもっとも現実的であった。実際に『典経』には、多くの東学参加者たちが実際に参加した理由として、王侯将相を図ることであった。

上帝は十二月に入って諸般の公事を終えられ、逆度(逆度)を調整する公事に着手された。京石・光賛・乃成は大興里へ行き、元一は申京元の家へ、亨烈と自賢は銅谷へと発った。上帝は、残っている文公信・黄応鍾・申京守らに仰せられて「京石は誠(誠)・敬(敬)・信(信)が至極であって、別の用に使ってみようかと思っていたが、みずから請うことであるからやむをえぬ」と告げられ、また「もともと東学が輔国安民(輔国安民)を主張したのは、後天の事を叫んだにすぎなかったが、心はそれぞれ王侯将相(王侯将相)を望みながら、願いを成し遂げられずに引かれていって死んだ者が数万名である。怨恨が天に満ちたゆえに、その神明たちをそのまま放っておけば、後天には逆度(逆度)にかかって政事が乱れるであろうから、その神明たちの解冤の頭目を定めようとしているところであるが、京石が十二諸国を言うのは、これはみずから請うものである。その父親が東学の中堅として捕らえられて死に、彼もまた東学の総代を務めたゆえに、これより東学の神明たちをすべて京石に付けて送ったので、この場から王侯将相(王侯将相)の解冤となるであろう」と仰せられ、紙に文を書かれて外人の出入りを禁じ、「後日に見よ。金銭の消費が多くなるであろうし、人も甲午の年より多くなるであろう。解き放っておいてこそ、後天に何の差し障りもないのである」と仰せを結ばれた。『典経』「公事」2-19。

『典経』「公事」2-19。

上の例文は、東学に参加した大部分の人々は、表向きは輔国安民を叫ぶが、内心では王侯将相を図っていたことを示している。外有気化の特性を有する東学思想の地人関係は、多様な方面へと拡張された。